三線座談会
那覇の三線組合で、三線の過去・現代・未来を語る座談会があった。どうしても三線の話を聞いてみたくて出かけた。三線が琉球王朝に伝わって600年、なぜ変わらない形を保ってきたかということに一番興味がある。たいていの楽器は、形の変化をしてゆく。音楽は常に変化してゆくものであるある。楽器は音楽の変化に伴い、より高度な技術にこたえようと変化してゆく。同じく中国から日本に伝わり、変化を遂げた三味線と比べてもそうだ。特に北の津軽三味線の変化の大きさと、南の三線の現状維持に何か文化的な特徴を感じる。今回の座談会の中では、三線が伴奏楽器であったということが変化をしなかった原因と話されていた。そのことから考えてみれば、確かに津軽三味線は独奏楽器の要素が強まってゆく。伴奏楽器に徹してきた三線とは音楽的に違う使われ方をしてきた。津軽三味線が門付けの楽器である。三線は琉球王朝の武士のたしなみとしての文化である。三線は女性には許されない楽器であったという。
音楽が武士のたしなみとしての文化として存在する琉球王朝。琉球王朝は力の外交ではなく、強国のはざまに生き抜く知恵の国であった。薩摩支配の時代には、帯刀が禁止され、空手が生まれたとされる。武士が武術を禁止されたという特殊な状況の中で、文化で統治するという思想が生まれたのではないか。文化には女性の宗教的な統治と、男性の文化芸術学問による統治ということがある。その中で、歌というものの意味がとても高まる。その歌の伴奏楽器としての三線であるから、変わることを拒絶したのではないか。以前津軽の文化の話を伺ったときに、いまだかつてないものを打ち出すことを安定した価値としようという心理が働いた。津軽三味線は常に以前にはなかった演奏法を考え、人を驚かすことが発展の方向となったという。それは角付けという、その場で評価されなければ生き抜けなかった芸という背景があるといわれていた。極端な早弾きや、叩きつけるような音がその特徴になる。聞く人を圧倒してなぎ倒す音色。北国の猛烈な吹雪のような、激しい地吹雪のような音楽。
三線は伴奏楽器であるために、むしろ徐々に演奏法が単純化されたようだ。そして一音の響きに、唄を生かす音色が求められた。中国で生まれた三弦は、北のほうでは大きな竿を持つ楽器であり、南のほうに行くに従い、ほぼ三線と同じく短い竿の小三弦と呼ばれる楽器になる。この小三弦が直接琉球王朝に伝わったと考えることが分かりやすい。だから琉球で小型化したということではなく、到来した形を維持したということのほうが近いのではないか。そして、到来した形を強い意志で維持してきた。維持した理由には上流階層のたしなみであるために、保守的な変化を好まない気持ちもあったのかもしれない。そして、あくまで歌を中止にそれを引き立てる伴奏としての楽器ということなども加わった。
その変わらない大切さというものが、今回の座談会にも表れていた。三線職人の方も、演奏家の方も、形は変えないほうがいいと繰り返し話されていた。問題として、現在沖縄の古典音楽を継承している人は、女性が多くなっているのだそうだ。しかし、女性は声が高く、その音程に合わせようとすると、一オクターブあげることになる。すると、三進の形を変える必要が出てくる。弦の張りの強さでそこまで上げようとすると、弦も切れるし、竿も痛んでしまう。そこで女性の声のほうを、現在の三線の音階に併せてゆくしかないということだそうだ。そして、女性は裏声を使ってもいいということになったらしい。三線の形を女性の声に併せて、変化する試みはいろいろあるそうだ。しかし、三線の持つ音の魅力を損なってしまうということで、楽器の変化は拒否されている。三線組合というものは、三線を制作する人たちが、共同で三線を販売し、研鑽してゆくというすごい組織である。