「寄り合い」の復権

   

幾つかの市民活動にかかわっている。主体的なものもあれば、遠巻きにかかわっているものもある。自治会というものも市民活動の中の、地域固定型なのだろうと思う。一年間自治会長としてかかわり、ここでの話し合いで最も大切な事は、時間が30分以内で終われば良い会議だと前任者から言われていた。何とか1時間以内で終わる事を心掛けて運営した。政府の閣議というものは、事前に発言内容を提出しておき、13分56秒平均でやっていると言う事だから、さすがの形式会議である。15分を切ると言う事で何かそこで話し合うなどという事はあり得ないだろう。報告をし合う、異論は出さない。これが暗黙の了解なのだと思う。しかし、アメリカの民主主義教育の普及で、公教育に民主的な学級会というものが、作られた。選挙で選ばれた、学級員が会議を取り仕切り、話し合いのまねごとをやる訳だ。今行われている共通認識の、会議のイメージがそこで作られたのかと思う。

日本古来の地域での物事の決め方は、「寄り合い」というものである。何しろ一つの事を決めるのに、泊りがけでエンドレスで行うものだったと言う。小田原評定・久野寄り合いという言葉がある。敵が攻めてきているという肝心な時に、何も決められない会議の仕方を表しているとされてきた。最近の研究ではどうもそう言う事ではなく、日本的な民主主義による決め方を表しているという事が言われている。寄り合いの仕方は、当て所もなく主題も見えないまま世間話を延えんとするのである。決まらなければ、食べて、寝て、翌日もまた延々とやる。その内になんとなくではこれで行こうとなるまで、取りとめのない世間話風の話し合いが続くのである。もうイイヤトいうまで行われる。根回しとか、密約とかいうものもない。諦めるまで、あきるまで話す。最もどうしようもない会議のやり方である。肝心な事を論理的に明確にすると言う事が無いのだ。

ところが、本当の市民活動を長年目指してやってみると、この寄り合い方式以外で物事は決まらないという事が分かる。例えば議事録をとるのは、必要に見えるが、何の意味もない。そこで発言が記録され、あの時ああ言ったではないかと追及する様な事があれば、その人は離れて行くだけの事だ。もしそれが地縁的市民活動であれば、暮らしにくくなるから本音は出てこないという事になる。跳ね返りや状況の理解が遅い、空気が読めない人だけが発言する事になる。何故、自分は避けられているのだろうなど、後になってそっぽに置かれている事に気付く。活動が動いてゆくためには、理屈だけではどうにもならないと思っている。本音というものは実は情動的なもので、そのときの流れや、勢いで動いてゆく。それが、腹蔵なく表面にまで現れ、自由にとめどなく、垂れ流されることが必要なのだ。会議の帰り道やまた会った時につい口に出るような事までもが、でてくる会議が寄り合いである。

全く、現代の時間に追われた暮らしでは間尺に合わないものではある。だから、寄り合い方式は、世間的には会議が下手だと言う事になる。議事録を残せとというような正論が必ず出てくる。それを民主主義的正義と考えているから、結局形式会議が行われて、体裁を整えるだけになる。話し合いがそうして失われ、実務連絡の集まりだけが残る。それはつまらないし、出たい人はいないだろう。そうして集まりの人数も減少し、義務化しなければ人が寄らなくなる。面白い雑談の会議なら、言いたい事も言えるし、良い話も出てくるから、人は朝まででも話しながら、満足して帰る事になる。「寄り合い」の復権である。本当に市民活動を始めたいと思う人には、お薦めの方法である。忙しいからそんな馬鹿げた事はやってられないと言う人が大半だろうとは思う。しかし、正式会議で実質が決まっていないとすれば、この寄り合い方式の価値を見直してみることだ。

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