大井町篠窪を描く
写真をとった所は絵には描かなかった所だ。
春になってから、毎日の如く篠窪に通って描いている。日本の春では、一番美しい村ではないかと思う。時間が少しでもあれば出掛けて行って描いている。絵の事を最優先にしているので、時間が無くとも描きたくなれば出掛けてしまう。先日も公民館関係の市の集まりがあったが、サボって出掛けてしまった。何か高校生の頃の学校をサボっている様な気分を思い出した。今頃の季節の一日の変わり様がすさまじい。昨日と今日でははっきりと色が違う。花が咲いたり、散って行ったりという事もあるが、むしろ芽ぶきである。芽ぶきの微妙な色調が大きく変わる。淡い色調が刻々と色を明確にしてくる。何処かの段階が面白いという事ではなく、この微妙さを描こうとすると、今日しかないという気になる。昨日も豪雨の中、篠窪に描きに行った。昨日は小松製作所の脇で描いていた。ごみがやたら捨ててある所だ。何故こんなに美しい場所にごみを捨てるのかびっくりするが、でもあまりごみなど気にならない。
篠窪あたりが面白いのはどうも、起伏である。小さな窪地が繰り返しがあるのだ。その窪地の状態が、春の今頃だけ明確になる。もう少しすると、すべてが緑になってしまい、渾然と一体化して描けなくなる。落葉樹に葉が出てしまうと、見通しが無くなるという事もある。それなら冬場ならいいかというと、地面に草の緑が無い時期だと、これまた地面の位置がはっきりとしない。空間の状態が、一番見やすいのが春先から今頃までという事になる。この時期畑仕事が忙しくなるので、狭い道に車を止めて描く事は迷惑になる。だから、雨の日に限る。雨の日は気兼ねなく絵を描いていられる。半日一台の車も来ないという事が普通だ。畑を描いているのだから分かるのだが、晴れ間を縫って畑が耕されている。この土の色が素晴らしい。小学校の先生が、茶色は使ってはいけないと指導した。それはだいぶ後まで意識に残っていたが、今は何故先生が茶色を使うなと言ったのかが不思議な気がする。土の茶色は素晴らしい。
雨は色を溶け込ませる。色の調和が良くなる。濡れ色の深さというものが作用する。そして雨に煙る事で景色が一体化する。色彩が抑えられ、わずかな色というものが重要な役割を担う。谷間の空間の動きを色が浮き上がらせてくれる。描きだしはグレーを中心に色を置いてゆくので、墨絵のようにも見える。しかし、そのままでは全く私の感じているダイナミックな空間感とは違う。空間の広がりや、動勢は色の存在で生々しい現実になる。緑の中の草むらの中に、赤い小屋の屋根を描いたとたんに、空間の意識が現実に近づく。ともかく自分の意思は抑える。見えているという事に従う事にする。2時間ほど描くと、これ以上描けなくなる。描けなくなるからといって絵が出来たという事ではない。その場でもうやれる事がないという感じに入る。家に持って帰り並べてある。今もその絵を眺めながらブログを書いている。
その10枚ほどの絵の中から、絵を持って出かける場所を決めて、又篠窪に行ってみる。その絵を描き継げる事もあれば、ダメな事もある。ダメで場所を変えることもある。同じ場所でもう一枚描きたくなる事もある。本当に無駄な事をやっている様な、あと何枚描けるか分からないのに、また無駄にしているのかと情けなくなる事も多い。絵の向こうに私というものが、存在しているのかという事に結局は至る。その絵を描いている自分というものに突き当る絵であるのかどうか。見えているという事に、かけているのだが、見えている自分というものがどういう物なのかという事になる。このあたりの不明瞭が、結局は不明瞭な絵になるのかもしれない。ただ、良く分からない事をなんとなくわかったような顔をして描くと言う事だけはしたくない。