JRの電柱が倒れる。
JRの電柱の倒壊事故についてはかなり詳しく報道されている。また、JRの担当者も正確に状況を伝えている。聞けば聞くほど、何故傾いた電柱が倒れないと思ったのかという事に不思議な感じを受ける。後から思えば誰だって早く撤去した方がいいと思うはずの事だ。人間はどうしてもまさか、そんなこと有るわけがないと思いこみたがるものだ。そんな悪い偶然が重なる事はない。色々悪い方向は考えないしてしまう。しかし、このように事故というものは、人間の心理のすき間を突くように起こる。その事は、原発事故で本当に痛い目を見た。まさかという事も起こる場合がある。そのめったにない様な事を、常に想定して防ぐ努力を続ける必要があると言う事だ。なんとなくイメージでは国鉄の保線担当者と言うと、とても高度な熟練者の集団に考えてきた。任せて安心できる人たちと感じていた。こういううっかり事故が起きて見ると、優秀な人たちが大量に引退し、抜けたのだと言う事を知る。
今回は不幸中の幸いとして、電柱の倒れるタイミングが2分ほど遅れてくれた。もし通過した電車に当たっていたら、大事故になった事だろう。早速総点検をするという事だから、何とか良かったのだが、むしろ、危ないなと感が働くような、抑えの利く職員がいなくなった状態で、安全管理を確実にして行くかである。原発関連は安全管理によくない背景がある。世間からうとまれ、敬遠されて、廃止した方がいいと言われているという事だ。そこで働く者はあまり良い精神状態ではないだろう。原燃のように、何度規制委員会から注意を受けても、杜撰さから抜け出ることが出来ない。自衛隊が世間からうとまれていた時代、今より問題事件を多く出していた。職場環境が良くなければ、どうしてもそういう事が起こる。郵政が官であった時代も、ひどい事件が良く起きていた。
農業では、自然現象による問題に、常に遭遇する。問題が起こることが前提の仕事である。今苗床に、みんなの苗が置いてある。もし何かあった時にどうするかの想定を考えている。その分の種籾がまだ保存してある。たとえ、苗床に撒いてもスズメやネズミ、いのしし、鹿。何があるか分からない。もう一度できるように冷蔵庫に浸種した種もみを保存しておく。何かあった場合を考えて、先へ先へ用心をする。自分の食べる食料を作ると言う事はそういう事だと思う。5年ほど前には水害で田んぼの一部が崩壊した。残った田んぼでどのように収穫するか。最善を尽くす方法を考えた。そしてそこそこの減収で済ませた。常に、何か問題があるという前提でその先を考えてきた。幸い、25年間食べるお米に困った事はない。勿論それでも収穫できないという事もあるだろう。そのときは何を食べるのか。昔の農家は古米ばかり食べていたのだ。
昨夜は防災リーダーの集まりがあった。今年の秋にある、防災訓練の話しが出た。防災訓練が形式化しているのではないかと、ついつい意見を言わしてもらった。いったい何を目的にした訓練なのか、そこから考えないといけない。今の訓練では、いざというときに役に立つとは思えない。小田原では各小学校が避難所になっている。舟原からも久野小学校まで避難する事になっている。これはどういう災害の時に、意味があるのかが不明である。久野の人口は1万人居て、全員が小学校に向えない。わざわざ、3キロも離れた小学校まで、災害のさなかに舟原から徒歩で避難することが理解できない。舟原の人で誰に聞いても、小学校に避難するとは考えていない。しかし、避難訓練だけは形式的に出掛けて行かなければならない。一時避難所はフラワーガーデンである。フラワーガーデンから、小学校に移動しなければいけない理由が不明だ。実際に役立つ事防災とはどういう事なのか考えている。JRの事故から話が飛んでしまった。