JA全中の万歳章会長が辞任
万歳会長は敵前逃亡である。リーダー失格だ。辞任前日には安倍氏とニコニコ歓談したというのだからアキレテしまう。国会では安倍氏が自慢げに政府の方針を万歳氏が喜んでくれたと答弁していた。全農という団体の、保守的圧力団体という体質の限界が出た。集票力の衰退という足元を見らている。全中解体は始まりである。次に県信連、経済連、共済連とその力がそがれて行くのだろう。そして、各地域の農協間の力の差が浮き彫りになりだす。最終的には農業共同組合の実質が消滅する。そして、農業株式会社が登場し、単なる利益追求型の弱肉強食型の農家経営が主流として登場する。その第1歩のレールを万歳氏は敷いたのだ。私は全中を評価してきた訳ではないが一応は、末端の組合員ではある。組織として活動方針を決めその総括もないまま、代表が任期途中で勝手に降りてしまうなど信じられない放り出しだ。
敗北の責任での辞任という事だとすれば、先ず全中解体の意味を総括をしなければならない。それでなければ次の代表も前に進む事が出来ない。すべてを後任に一任と言うが、ここまで無意味に解体された全中が首脳部を失い、引き継いだ責任者に何が出来ると言うのだろうか。万歳氏は政府は農家の所得倍増と言っていたが、どういう道筋で実現するのか安倍政権に迫っていたはずだった。その道筋は政府の考えでは、新自由主義に農家もなると言う事なのではないか。農業には国を支える食糧生産という重要な役割がある。政府は自給率の目標を下げている。安倍氏自身が日本を瑞穂の国と主張しているはずだ。それとも安倍氏も、本音では米も安い国から輸入すればいいと考えているのだろうか。日本でコメを作る事を非効率な事だと考えているのだろうか。単子眼の経済だけで食糧や環境の事を同率に見てはダメだ。日本がどんな国になるべきかという事から、総合的に農業をとらえる必要がある。
農協という物に、蓄年の問題が溜まっている事は確かだ。しかし、その問題は日本のこれからの国づくりにも大きく影響するものだ。農村に有る歴史と因習によるヒエラルキーの様な物が、農協に反映している。一言で言えば民主主義的な組織には、ついになれなかった。圧力団体であるときはその方が良かったのだろう。地域の政治権力となれ合いになり、米価闘争などを戦ったのだ。田中角栄氏が米価値上げと戦う構図など、芝居の様な戦いではないか。米所の新潟出身の角栄氏が列島改造論という競争の徹底化の中で、作付前の米価の決定を主張していた事を思い出す。値段を決めてから作るかどうかを選択してもらうという主張だった。結論は今年の米価には間に合わないから、という言い訳の様なものだった。政権党との慣れ合いの中で、全農が巨大化していった。そして一人ひとりの組合員は、埋もれてしまった。
まず、農業と日本人の暮らしの関係を整理すべきだ。日本人がよりよく暮らす根本に、稲作が必要だと、私は考えている。先ずその問題を国民全体で明確にしなければ始まらない。食糧が確保されていると言う安心。世界の人口の増大と、食糧生産量を考えれば、何処かで食糧は不足を始める。食糧輸入に依存する国づくりでは、日本の国土を活かしたものではない。豊葦原瑞穂の国と呼ばれる豊かな国土の日本。山地水明の地日本。この類まれな自然環境を生かして、日本列島に暮らしてゆけるありがたさを、再確認すべきだ。これからの世界の不安定化を考えれば、食糧の確保はより重要になる。自然と調和し、里地里山の暮らしを、手入れを続ける暮らしの素晴らしさを、国の根本に据えるべきだ。稲作から日本人が離れると言う事は、日本人が変貌すると言う事だ。日本人が世界で評価される大切なものが、日本という地域に根差すローカルなものだ。この原点に何度でも日本人は戻ってみることだ。戻れる豊かな山河を残せるのかどうかの、瀬戸際に今ある。