春の絵を描く

   

 

写生してきた絵をこんな風に並べてある。絵から呼ばれるのを待って、描きついでゆく。

春の色が好きだ。花もいいが、新緑も良い。この所近所に良く写生に出かける。畑を描きたいという気持ちで出掛ける。以前は、絵になる場所というものを探していた。所が今は、畑のある場所をそのまま描いてみたいと言う事で、絵になる所を探そうとは思わなくなった。それは北信で畑を描いてからそんな気が強くなった。気分の良い畑を見つけて歩いている。良い畑という事で、そういう所で体を動かしたいと思うような畑だ。足柄平野で、そういう場所を探すとなると大井町から中井の方にゆくことになる。あそこが良かったからと思って行ってみると案外違っていて、季節によって畑の様子は変化して行く。土の色という事がある。作物にとって良い土壌という物の色がある。その柔らかさがある。沖縄で良い畑だと思う色と、足柄の良い土壌は違う。作物を豊かに育てる土の色を描きたい。今なら、キャベツとか、ソラマメとか、それも当然描きたくなる。

化学肥料でずくずく育った作物があると絵を描きたいと思わない。一見放任の様な畑だが、とても美しい畑がある。当たりに漂う空気が良いのだ。こんな畑を自分も作りたいなという場所だ。何故かそういう畑は、風景になじんでいる。良く描きに行っていたら、そこはNPO篠窪という看板があった。無理をしている違和感がない。土の力の程度にあわせて作っている。そうすると何故か、隣の藪や林にそのままつながってゆく。畑という人工が、丸で自然を作り上げている感じだ。良く出来た日本庭園が丸で自然を見ているような感じがするのと似ている。自然というのは、圧倒的に完成されていて、それがそう有る事に、必然がある。この自然の完璧な調和に対して、畑という物はどうしても異物である。その異物が、自然の中に違和感なく入り込んでいるというのが、良く出来た畑だ。だから、畝一つでも定規で弾いた様な直線ではなく、その地面で働いている内に出来てしまったような、なじんだ線になっている。機械で耕した畑ではその感じが出ない物だ。

春の芽ぶきの淡い色彩の甘さは、それを写し取ることだけで充分という感じがする。描いている自分がそれで満足できるという事になる。それが上手くいったからと言って、画面で色彩が調和しているという結果ではないのだが。それはそれで許せるほど、うっとりする美しさに酔わされる。それが絵画とどう関係するのかである。自分という存在の何かとの関係である。春の色を写生しているときは、到底そういうややこしいことなど考えられない。しかし、家に戻って絵を並べてみると、酔いが覚めて、こんなものだったのかと言う気持ちになる。こんな物でいいのかもしれないし、いけないのかもしれない。自分と、自分の眼とはどういう関係なのか。自分が見ているという事が自分のすべてなのか。眼が見ていない物を何か期待しているという事になるのか。こういうがつがつした物が、乞食禅という事なのか。

良い畑を描くだけで良い。良い畑という物が分かるような絵が描ければそれで十分。バラより美しいバラの絵が無いように、良い畑以上の絵など無いのかもしれない。畑を見て良さそうに見えるとという事は、自然とのかかわりがいいという事の様な気がする。自然の手入れの範囲がいい。作物がその場所に居させてもらっているという位になじんでいる感じだ。こ言う畑を描きたい。そういう田んぼを描きたい。描きながらこの感じの良さを、我がものにしたいと言うので絵を描いている。我がものとは、理解したいという意味だ。絵を描く事でこの感じ良さの意味を確認している。その感じ良さこそ、瑞穂の国の美しさなのだと思う。この日本列島という豊かな国土を活かした姿なのだろう。

 - 水彩画