桜を描きに行った。

   

桜と桃と杏を描きに山梨に行ってきた。今年は、山梨でも桜と、桃と、杏が同時に開花していた。そうなっている事をインターネットで確認して出か掛けた。便利なものである。一日は、曇りがちの雨で、一日は降り続く雨だった。それがちょうど良かった。雨降りの時は、畑にも花の下にも人がいないので、自由に描く事が出来る。車の中から描くので、雨が降っている事は絵を描くのにちょうどいいのだ。写生は晴耕雨描に限る。雨の日に描いていると雨降りの状態の変化に敏感になる。雨降りだからと言って、陽はさしているという事が分かる。その微かな日差しは雲に流れている。だから影にも動きがある。美しいのは雨にすべてが煙ると言う事だ。見えたり見えなかったりして、本当の姿が見える。木の幹等は濡れ色になるとその形をあらわすようだ。勿論草の緑もまさにみずみずしく美しくなる。そういう事で、雨だから描きに行こうと言う事が多くなっている。

写真のまさに満開の桜は私の生まれた境川村のにある。花鳥山遺跡という場所だ。杉の巨木が古墳の上に生えている。その周りを取り囲む様に数十本桜の大木がある。甲府盆地を見下ろすような位置で、私の生まれた所とほぼ同じ眺めである。周囲は桃の畑である。なんとなく目になじんだ風景である。多分子供のころいつもこうした風景を見ていたので、俯瞰の風景を描くようになったのではないかと思う。別段上から目線とか、殿さま目線だとか、悪く言われるようなことでは無く、子供のころ焼き付いた物なのだから仕方がないところがある。この場所は甲府盆地の南側の縁に当たっていて、つまり北斜面だ。だから甲府盆地の眺めがよい。遠く秩父の連山から甲斐駒あたりまでが、南から西の縁に当たる。芋の露連山影を正しうすと飯田蛇笏が読んだ句のとおりである。

花影と言うが、まさに雪のように積もった花弁が暗い。花に覆われて陽が閉じられている。それ程の花が咲いている。実はここを描いた訳ではない。ここは描かなかったので、写真をとった。記録をするという意味では、描いた場所はカーナビで地点を記憶させている。だから、もう一度行く事はすぐにできる。私の描く場所は畑の中の何でもないような場所だから、もう一度行くのがとても難しい。前は2度と到達する事が出来無くて仕方が無く他の似たような所で描いたという事もあったが、今はカーナビの地点登録があるので、随分楽になった。

意図的なものを出来るだけ取り払い、眼だけになって、視覚に従って描いてみたのだが、自分の癖の様な物が強く出ることになった。反射的なものに従って描いているという事になる。自分が描くと言う事はこういうやり方でもないと今更ながら思った。絵を作るのでもなく。この見ているという事にどこまで近づけるかというときには、自分の中にある、習慣的に身についてしまった癖の様なものも取り除かなくてはならない。取り除こうという意図が働く事になる。それは操作なのだろうか、自分というものに迫っているのはどっちなのだろう。改めて見てみるとそういう事になるのだが、描いているときは必死になってしまうので冷静さが無い。ただ、何とかならないかとみている場所と画面を行き来しているだけになる。

 - 水彩画