自分の絵をよくよく見る。
自分が絵を描いてゆく上で、最も大切にしている事は自分の絵をきちっと見ることである。絵を描く立場でなく、見る立場で見てみること。表現者として絵は描いている。それは私絵画であれ、私小説と同じで、表現方法の一つであることには変わりがない。私絵画という物が少し、私小説と違うのは、私を表す表現方法としての手法という意味の絵画方法ではないという意味なのだが、分かりにくい。自分の内面をえぐり出す手法で、小説の表現ジャンルとしてあるのが私小説とするなら、私絵画は、私に閉じこもることで、私の人間の底にまでいたろうと言うような、自己循環的な要素がある。座禅修行において修業目的という物が無いことが重要なように、出来上がった絵画の意味という事を捨てるという事がある。禅宗の開祖が菩提達磨が、帝かなわずして、面壁したという意味である。自己探求などという物は、究めて役立たずの反社会的なものだと思う。それでも成果を求めないという事は、禅の修業の第一義である。
鑑賞者としての自分は、見ると言う行為に自分をゆだねる。心底まで見る事が出来ればそれで十二分ということである。これは岡本太郎氏が書いているが、最後には指で指示せばそれでいいと言った様な意味だ。山を見て、見る事が出来て、それを指し示す。示すということで、十全であるのが芸術という意味なのではないか。示すには見ると言う事が出来なければ出来ない。この見ると言う事は、一見誰にでもできることである。所が見えると言うことには、写真のように映っているだけの水準から、もう少し意味あるものまである。いわく言い難いが、見えていない物まで見ると言う事がある。見るには、経験と訓練が必要なのだ。私が稲を見る事の出来る範囲という物がある。収穫という物まで見据えて、究めて総合的に見たいと考える。今後の天候を予測したうえで見えると言う事が繋がって来る。この事を子供のころランチュウノ選別の経験で知った。頭の煙を見ろというのだがついに見えなかった。
稲や金魚ならまだいい。生きると言うことの面白さは、自分の生命の実証の様なものを見えるかというのだから、ある種神がかりである。しかしこの所に絵を描くと言う大切なものが潜んでいる。見えなければ描けない。これは私が私の納得のゆく「見える」にならない限り描けないという意味である。他人と比較して見えるかどうかという事でもない。ランチュウの煙は、多分実在していると想像できる。沖縄で言えば、何もないウタキにこそ見える物がある。しかし、「山」を見えたときの衝撃の様な物は、果たして肉眼的な物なのか、妄想なのか。あるいは、幻影なのか。あるとき、ある瞬間、違った決定的なものとして見える時がある。ああこれさえ描き止めればいいという事に気付く。描き止めれば、自分が見たという実相が伝わるかもしれない。そう考えて、その見えている物に迫ろうとする。それが私が絵を描くと言う行為になる。だから、見ている物を描いているとしか言えないのだが、この見ているは、かなり肉眼的でもないわけだ。
絵画における見えるの違いは、ベラスケスの見えていると、ゴッホの見えているが違うように、歴史の影響がある。宗達の見えたものと、マチスの見えたものも違う。社会環境の違いも、見え方に影響を与える。私の見えると言うものがどれほどの真実かで、絵の真実味が表れるのだろう。表現者は見ると言う本物にならなければならない。私が、自給的な生活を送り、その眼が見ている物を絵にしたいと考えている。こういう気持ちになったのは、最近の事である。随分遠回りして、眼も衰え、体力も衰えた頃になって、やるべき事に気付いたという事になる。あと何枚の絵が描けるのかという事態になって、どこに行くべきなのかだけは分かってきた気がする。たどり着けるのかどうかは別だが、進めるだけ進んでみるつもりだ。