地域活動シンポジウム
小田原市と自治会連合が実施した、地域活動シンポジュームと言うものに出た。あまり乗り気ではなかったのだが、自治会長の我慢の役割の一つだと思って出席した。義務的要件が多くて困る。法政大学の名和田是彦先生の、講演があった。「何故、今地域コミュニティか?」というものだった。全体の認識が私の考えている地域と言うものの、見方と近いもので、専門家がこう見ているのかという驚きがあった。今後自治会と言う組織は消滅して行くものだから、自治会が少しでも生きている間に、「協議会型住民自治組織」への転換を図る必要があるというものだった。連合自治会の集まりの中で、なかなか大胆な発言だと思ったが、とても柔らかな口調なので、誰も自治会消滅の遠回りの話だとは気付かなかっただろう。自治会の参加者が年々減っている原因は、自治会の活動が楽しいとか、達成感があるというものでないという所に衰退の原因があるとされた。これも、全く私と同じ意見だ。表彰式の動員の為の参加では、我慢である。
しかし、先生はこのように直にに言われた訳ではない。協議会型住民組織活動には、達成感があると言われた。ものは言いようだなあ―と感心した。ようするに自治会は負担感の塊である。仕方がないから引き受けている状態。それは、次の役員探しをしてみればよく分かることだ。結局犠牲的精神の方が、エイヤーと言う覚悟で引き受けてくれる。ありとあらゆる理由で断る人がほとんどである。舟原自治会は良い方のようだ。どこの自治会でも次の人が見つからないので、同じ人が止められないで続けていると言われていた。それ程、自治会の仕事は義務的な仕事になっている。正直、地域コミュニティーのシンポジュウムに出たいと言う住民は、めったにいないだろう。自治会長をやってみて、自治会長の仕事の半分以上が、義務的な気分でやることだと言う事が分かった。だから無事やり終わっても達成感などない。
しかし、国も県も市もすべからく公共は、少子高齢化時代に入り、住民組織への仕事の移行を期待をしている。その期待の受け皿が、一応は自治会と言う事になる。だから自治会の仕事はどんどん増えて行く。それを市民協働という美名のもとに、ボランティア的協力ばかり求められる。長年ごみ処理を考えてきた。いわゆる協議会型住民組織として、生ごみクラブと言う活動を立ち上げ、熱心にやった。一定の成果があった。こうした活動では行政の役割、市民の役割。それぞれが役割を認識して分担する必要がある。結局は行政が自らの役割を自覚せず、果たそうとしないので、この活動から離れた。住民ボランティアだけに責任を押し付けて解決できる事ではない。行政は自らの役割への認識が足りない。ごみは製造者責任があり。行政の処理責任がある。そして住民にはごみを出来るだけ減らす義務がある。この3者の役割を経済の合理性の中で考えるべきだ。住民だけに減量義務を強調しても効果がない。
舟原自治会では正月の集まりがある。1月1日1時からである。役員以外は5,6人の参加だった。それでも昨年より多かった。今年は止めようと組長会議で提案したが。形だけでもやら無ければ、慣例を破る事になると言う意見が多く、結局の所実施した。前例主義で、形骸化した行事が継続して行くことになる。地域の暮らしが変わり、家庭での正月の方が大切にされる。そうは思っても止める事はなかなか難しい。それが自治会と言う地域地縁型の組織の限界ではないだろうか。やりたいのでやるという正月行事でなければ、達成感も楽しさもない。ただでさえ行政から降りてくる仕事が多くなっているうえに、こういう慣例的な行事も多々ある。出来れば役を避けたいという気持ちはよく分かる。そしてその限界は近付いていると思う。早く協議会型住民組織を立ち上げることだ。美しい久野里地里山協議会やあしがら農の会もその一つだと思っている。