絵を描く意味について

   


庭の情景 はがきサイズ 絵の話なので最近描いたものを載せます。

何か目的を持って描こうとする事はない。その場の描きたい気分で、描き始める。最近は毎日描いている。大抵の場合、他の事をしていて、絵が頭に湧いてくる。それが田んぼの中であったり、海を散歩しているときだったりする。犬の散歩で通りかかった人の家の庭を見ていて、突然描きたい感じが、明確になる事もある。実際の絵が見えるような感じだ。それを描きとめて置こうとかは、別に思わない。描き止めるなどできない事が想像されるからだ。むしろ自由に頭の中で絵の完成を見ている。それは、究極の絵はその場所を「指差すだけでいい」と、岡本太郎氏が書いている事に近い。そうしたある美が存在する、空間の記憶の蓄積が、何処かで自分の絵になる。それではと言う感じで、あるとき実際に田んぼに出掛けて描いてみる。田んぼの作業をしたときに感じた、あの頭の中に湧いた絵を、描き止めてみたらどうなるかという確認である。大抵の場合、それは絵ではないのだ。絵にはならない。しかし、それはそれで置いておく。

描いた物が絵ではない、という感じを何故かと思う。絵と言う前提が何処かにあるからという事になる。実際には頭に湧いた感じと違うと言う事になる。そのまま、時々見る場所に置いておく。絵にもならない、へんてこな絵のように見える物が置いてあるのだから、とても不愉快で何とかしたいと思うのだが、この何ともならない物を何故絵になると思い、描いてみたのか。そういう事を考えている。私が絵を描くと言う時間のほとんどは、そのあたりの頭の操作である。自分の中にある脳が描くイメージの再現をしているような感じだ。この時純粋にイメージ化する物を、邪魔をするものが自分が今まで考えてきた、絵らしき物である。絵画とはこうした物だという、先入観の様な物が、自分があるときに頭の中に湧いた、素晴らしい場だ、と感じた何かと、行きつ戻りつする。あるときこういう事かと、思いつく物がある。その思いつく事は、絵の上の事だ。

そうして、せめぎ合っている結果、結局は絵らしきものに進んでいる事ばかりである。これがどうも気持ち悪い。評価されたいとか、人に見せると言うような事で描いている訳ではないので、何をどうしても良いし、どれほどみっともなくても良いのだが、自分でも予想外に絵らしきものに進んでしまう。この絵らしき物と言うのは、好きなマチスとも違うし、ボナールでもない。鈴木信太郎でもないし、中川一政でも、梅原でもない。大した物ではない笹村である。この大した物ではない、笹村っぽい絵と言う物は、別にすごい物である必要はないのだが、問題は本当に笹村自信の中から湧き出た物であるかである。ここに今文章で書いている事とも、同じ事なのだろう。何とか頭の中で考えている絵と言うものを、言葉で書き止めてみようとするのだが、どこまで正確であるかだ。確かに今はこう考えているのだが、読み返した時も同じなのか。日々変わっているとも言える。だから書き止めてみている。

この感じは不思議なのだが、10歳の時に光風会の根津荘一先生に教わった時の感じと変わらない。二子玉川のバラ園で写生会があった。ただただ、バラを見て絵の様なものを描いた。バラを写そうとして描いただけの物だ。しかし、そのときの子供の絵も既に、絵にしようとしている。絵らしき物の観念が働いていた。小賢しい、負けず嫌いの子供だったのだと思う。褒められる絵と言う物がどういう絵か、理解していたと思う。だから、55年間も掛かって、評価されるということの無意味さから抜け出そうとしてきたのかもしれない。もう今は、絵を描いて、自分の観念の底までたどり着いてみたい。そういう思いである。その思いを、自分の学んだ絵らしい絵と言う物が一番邪魔をしている。描いている時はそうも思わないのだが、出来たかなと思って眺めていると、何だまた絵を描いているという結果になる。ここを乗り越えたい。

 - 水彩画