文化の違い
フランスで370万人のイスラムテロに対する、平和行進が行われた。日本政府、また日本社会の反応は世界の潮流を受け止めていない気がする。イスラムの聖者を揶揄するイラスト画を掲載し続けたフランスパリの新聞社が、テロ攻撃を受けた。テロを行ったのは、アラブからの移民2世だった。この兄弟はかねてよりイスラム過激派と関係があったようだ。さらに、もう一人女性警官を銃撃したテロリストが連携を取り、立てこもり事件を起こした。いずれの犯人も、治安部隊が突入して射殺された。なんとも恐ろしい事件である。欧米諸国は報道の自由を守らなければならないと、360万人と言う、デモ行進がフランス各地で行われている。第一次世界大戦も、第2次世界大戦も、大きく言えば文化の違いが根源にある戦争ではないかと思う。こうして、イスラム文化とキリスト教文化の理解しがたい対立が深まると言う事は、怨念が増幅されてゆく事になり、復讐の正義がテロの正当化になる。
今回発端になったイスラム批判の風刺画と言う物がある。今のところこうした批評文化を報道の自由と同等の物と欧米諸国では主張されている。少し前には、北朝鮮のキムジョンウン大将を揶揄する喜劇映画の上映問題が起きた。映画自体は大した物ではないようだ。しかし、この映画を製作した会社がサイバー攻撃を受けたという事が、表現の自由を守れというアメリカ大統領の、強い主張に繋がった。さらにもう少し前には、産経新聞の支局長が、韓国の大統領がフェリー事故の際に、どうも密会をしていたという噂があると伝えて、逮捕起訴された。これも報道の自由を侵害する問題だと、安倍総理をはじめ日本の報道機関は強く抗議している。しかし、この3つの事件とも、報道や表現の自由を持ち出すような、まっとうな正義と言えるほどに、堂々としたものにはみえない。私は批評報道の攻撃の仕方が、いずれも品格が無いと思っている。批判として下劣である。
フランスならもう少しおしゃれな批判にできなかったかと思う。置き換えてみれば良い。日本の天皇が、韓国の新聞で、非礼な下卑た記事が掲載されたとする。日本人は我慢できるだろうか。それが、ドタバタのB級映画であれ、風刺漫画であれ、スキャンダラスな噂話であれ、日本人の多くが耐えがたい気持ちになるだろう。日本人は象徴が天皇であると憲法で決めた。その良い位置づけを誰よりも努力して進めているのが、昭和天皇だったと思うし、又平成天皇も同様だと考える。その天皇制度を正面から批判するのではなく、下卑た角度からおちゃらかすとすれば、まともなやり方とは思えないし、許しがたい事である。どこの文化にも、守りたいものはある。それはタブーの様なもので、そのタブーの存在の意義を理解できない、異文化によって踏み荒らされたくない部分である。特に、イスラム文化と言う物は、何千年もの間、キリスト教文化と対立を続けてきた。両者の溝は深い物がある。
そして、そのイスラム圏からのヨーロッパへの移民が続いている。フランスには10%のイスラム系の住民がいると言われている。しかもその移民は人種差別を受けている。それは私がフランスに居た、40年前にもあった事だ。移民の労働者があからさまな人種差別の暴力を受けているのを目にした事は、何度かあった。勿論私自身が差別を受けた経験もある。人種差別の中で、暴力の連鎖が起きる。すべての国が文化の違いを認め合う必要がある。この機会に日本は近隣諸国との間での、理解を深める努力をすべきだ。互いの嫌がる事は控えよう。近所との付き合いという物は、25%対75%で向こうは真ん中だと感じるものだと考えておけばいい。日本は中国の文化、韓国の文化から多くの事を学んできた。宗教も、生産手段さえ学んだ。日本の稲作を考えても、中国で生まれた水田稲作という4000年の永続農業を学んだものである。日本の水土文化と考えられている多くの文化が、近隣諸国から学んだものである。その恩を感じて、我慢する所は我慢するのも手だと思うのだが。