宮古島にて
岸辺 中版全紙 ガラスの反射でおかしい。この文章はなれないタブレットでかいていて、おかしい。
沖縄好きになって、何度か沖縄に来ている。 今回は宮古島に来た。まずレンタカーで一周した。2時間かかった。本島とはずいぶん違う様子だ。島全体が熱心に耕作がされている。平な島でどこでも畑ができる島のようだ。土は赤土で乾くと白土のようにかわる。珊瑚が隆起してできた島だから、石灰岩が風化した土壌なのだろう。耕土は浅く、少し掘れば石が出てくる。石は大理石のように硬い物から、ほぼ土の様なものもある。その石で畑の低い側面を積んでいる。それでも段々畑というほどの段差はない。ここまでの畑にするには、どれ程の年月がかったことだろうと、称えるような気持ちになった。水田もあったはずと調べてきたが、今はその痕跡もわからなかった。耕作地の80%はサトウキビである。背丈が3メートルもあって、密集している。これが風景を作っている。刈りとりのすすんでいる畑もあって、いつ植えるというような季節的な決まりはないらしい。本来はこれからが刈り取りらしい。すでに耕された畑では白い石が顔を出していた。
製糖工場もあるし、バイヲガスの実験施設もあった。宮古牛の牧場もある。宮古馬も飼われていて、乗馬ができる。だから牧草地も当然あるが、しかし風景としては、サトウキビの島である。サトウキビの丈が高すぎて、印象を支配している。そこに、コンクリートブロックの四角い家が、草に埋もれるように点在する。これは中国の 農村風景を思い出させるものだった。古い時代の琉球の民家は一軒だけしか見なかった。風の強い、大きな台風のとおる地域だから、これも致し方ないことと思う。博物館には古い時代の家が再現されていたが、葦を編みあげた、なんとも風情の良い家である。これは琉球に支配される前の時代のものなのだろうか。宮古は琉球に支配され、琉球は薩摩に支配され、薩摩は江戸幕府に支配される。人間の愚かさの歴史ではないか。家の形にそういうことが現れているともいえる。それならこの四角い家は誰に支配された物なのか。
宮古は宮古上布だ。これは日本の歴史上最高の織物のひとつである。そう判断したのは明治、大正の日本の庶民である。この織物は麻織物と思っていた。これが書物の知識である。チョマという植物が麻の一種で、いわゆる麻織物と思い込んでいた。麻織物と強弁したのは、販売のためかもしれない。これがなんとあの、「からむしおり」なのだ。カラムシは小田原のどこにもある草だ。それで織物ができるとは聞いていたので、繊維を取り出すところまでやってみたことがある。しっかりした繊維だとは思ったが、これでは到底繊細な仕事は無理だと思ってしまった。たぶん、そのカラムシをチョマという品種に改良を重ねたのだろう。葉を見れば明らかに麻ではなく、カラムシだ。1メートル以上に枝分かれせず延びるそうだ。枝分かれがあるとそこで切れてしまうらしい。35日で一回刈れると言うから、南国である。これを琉球藍で染める。この染色が絹とは違い、繊細な仕事がいると言われていた。畑や栽培する人で状態が違う、その上糸繰りで又様子が違う。これを染めで均一に仕上げる。今年仕上がった反物が4反と言われていた。工芸研修所には女性が7名作業をされていた。
芭蕉布も、びんがたも含めて琉球は織物の文化ではないか。1400年代にはすでに宮古の織物は独自に成立していたらしい。染色の技術も確立していた。中国に流れ着いた人の記録に、着ていた衣服が特にあったということは、漁民が織物の衣服を着ていたことに驚きがあったのではないだろうか。宮古上布は東京の織物問屋の柄の要求に答えて、より繊細に高度化したようだ。びんがたもすでに平安時代のみやこの影響を受けているというから、文化の交流と進歩というものが見てとれる。そして、戦後一気に衰退に向かう。着物が洋服になるからだ。これこそ欧米の影響なのだが、世界に類を見ない高度な織物が伝統工芸を残すという、文化遺産の中で命を永らえている。資本主義文化の競争文化の浅薄さを目の当たりにする。今、稲作文化が競争の正義に伝統文化を棄てろと迫られている。人間が育て上げた尊いものを、経済の合理性だけで選択して行くことが、人間の幸せではない。宮古に来て改めて確認したことだ。