暮らしからの国家
志賀高原 田ノ原湿原 中盤全紙 たくさんある田ノ原湿原の一枚である。青い所は空が映っている。鏡のような池があるのは、春先の事である。雪解けをして、今目覚めようとしている。
国というものは、民族、言語、宗教。こうしたものによって形作られている。その3つが完全には揃わない事もある。政治状況によって人工的に、少し無理をして作られた国家が世界では一般的である。それは、スコットランドの独立や、スペインではカタルーニャ地方や、バスク地方の独立のように常にくすぶり続けるものだ。その意味ではウクライナの中で、国民投票が行われ、クリミヤ半島がロシアに成りたいというのも、別段不自然にはみえない。世界が平和になるのであれば、国というものが無くなる方がいいとは思うが、EUの現実はそう単純ではない。経済の形が変わり、交通や通信手段が変わり、国という物の成り立ちが、過去のような単純なもので無くなっているのは確かである。日本でも、民族問題が無いとは言えないが、ほぼ日本民族一つに同化した状況である。言語では日本語が通じない日本人は珍しいだろう。宗教に関しては共通の宗派宗教はないとしても、薄れかけてきたとはいえ日本教的共通信条がまだ存在すると言ってよい。
資本主義経済が世界全体を支配する中で、世界企業は国境を越えて活動している。トヨタやサムスンがどこの国の会社であるという事より、その会社の製品を世界中の人が、普通に使うという事である。宗教的戒律で、どこの国の製品は使えないなどという事は今のところない。製品は国や宗教の枠を超える。そうやって資本主義経済は国の成り立ちの根幹に触れ、侵食させる。国が揺らぎ始めて居る。例えば、稲作という日本人を作り出した生産手段は、その比重が極端に下がり、既に日本人は農耕民族ではなくなっている。日本がどんな国かと言えば、どこにでもある工業国という事なのだろうか。民族というより、経済によって世界が共通化してゆく流れなのだろう。この点日本という国土に根ざして暮らしていると、国とか民族とか、以上に日本という国土と、自分というものが切り離しては考えられないくらい大きな要素になっている。
人間は何を目指すべきなのかである。国というものは人間の暮らしにとって、どんな存在なのかである。もし国破れて山河ありだとするなら、山河さえあるなら暮らしは可能である。確かに経済は決定的に人間の暮らしに影響を与えはするが、それに巻き込まれない、それぞれのあるべき生き方を求めたほうがいい。人間のより深い幸せというものは、経済を越えた所にある。これは自給生活をしていると自然に生まれる感情である。そう考えると国というものも、経済以上の主義や目的を持たなくてはならない。そうしなければ、経済の中で人間の幸せな暮らしというものが見失われることになる。経済は確かに重要な要素ではあるが、それに人間の暮らしが、飲み込まれてしまっては本末転倒である。エコノミックアニマルと日本人は蔑んで呼ばれたが、今やそのように蔑視した世界中が経済以外の価値観を失いつつある。その企業の価値観は、人間の価値観というよりも、利潤という宿命を負い、判断力を失い迷走して行く。
日本でも国境での問題が時々持ちあがる。国境紛争にはたいていの場合、領土争いを越えたもう少し本質的な対立が隠れている。その為に国境の争いが、あえて持ち出されるとみておいたほうがいい。結局は経済の状況変化である。中国、韓国の経済成長と、経済悪化の深刻化予測である。日本の市場としての中国韓国が深刻に変化をして、違う関係の構築を図ろうとしている。日本国とそこに暮らす日本人という民族の方角の議論である。私は愛国的な人間であるが、それは日本という水土と、かつての瑞穂の国がらの日本である。どんな国になってもいいという訳ではない。水土を司る天皇家という意味が、日本人の象徴の意味だと思う。それは経済や武力とは隔絶したもので、文化を持って国を治めるという思想だと思う。世界経済から一歩退いて、自立した国づくりをしっかりとする。食糧の自給は100%を目指す。美しい日本の山河を守り、育て、自然と調和した生き方をしてゆく。当たり前の外国との交易は行うとしても、日本をゆがめるような国際競争はしない。そして、日本文化を深め、循環型の暮らしを営む。