小学生を装った慶大生
足柄平野の畑 中判全紙 四角に区切られた人工的な感じが絵にしてどうなるか。そんな事を思いながら描いた。
「あべそーりが約束をまもんないでお金をムダづかいするのがりゆうです。11月18日にあべそーりが解散するって言ってから、なんでなのか分からなくて、学校のみんなをあつめてサイトをつくることをきめました!」として「小学4年生の中村」が立ち上げたとされ、国会議員や新聞記者なども注目していた。24日夜には、安倍首相がFacebook上で「批判されにくい子供になりすます最も卑劣な行為だと思います」と批判した。 NPO法人「僕らの一歩が日本を変える。」の代表・青木大和氏が自身が立ち上げたものと認め、謝罪するに至った。---今回、僕の軽率な言動により、関係のない多くの方に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。なお、今回の行動は僕個人で行ったことであり、どの組織とも一切関係ありません。これだけは、誓って間違いありません。 本当に申し訳ありませんでした。 青木 大和
という顛末である。「赤頭巾ちゃん気をつけて」を思い出した。庄司薫という日比谷高校生になり済まして書かれた、芥川賞受賞作品である。福田章二氏が本当の作者で、本名で東大在学中に発表した、「喪失」で中央公論新人賞を受賞していた。赤頭巾ちゃんは高校生が書いているという文体で、軽妙に、皮肉っぽく全共闘世代を、そして同時に大人社会を皮肉っている。当時は大学闘争が盛んに行われていて、それに対する違う場所からの意識だと私は思っていた。斜に構えた高校生という事で、社会の矛盾部分を分析している。この場合、既に一定の評価のある福田章二氏が、わざわざ日比谷高校生という昔に戻って書いている。勿論それは後でわかった事だが。それが、高校生を装う独特の文体となって、ベストセラーにもなり、映画化までされて、その後4部作となる。魅力はあるのだが、腹の立つ小説ではあった。私は、庄司薫のファーンではあったのだが。文体にある傍観者的空気。当事者的なものを避けて通る文体。これが高校生を語るという事だったわけだ。この所を、あべそーりが卑劣と反応したわけだ。
その点安倍総理は当事者として、日本を背負ってとんでもない場所に連れてゆこうとしている。アベノミクスを批判するなら、代案となる経済政策を示せ。その通りである。批判するなら、代案を示さなければダメだ。小学生に成りすますという事は、当事者になりたくないという事だ。日本が悲惨にならない様な代案を示して、国民に喚起するしかない。所が、まだ日本が経済大国に戻れないことに気付いていない社会状況がある。まだ、経済競争に勝てる可能性があると信じたがっている。あの戦後の最悪の時にだって日本人は働いて働いて、世界第2の経済大国になれたではないか。この悪い状況だって、頑張れば何とかなるはずだ。という心理が日本人にはまだある。私だってその可能性があるなら、そう思いたい。安倍氏はここを突いている。しかし、残念なことに世界経済は、新しい状況に入っている。もう日本を豊かにしてくれる消費者が世界のどこかに居る訳ではない。次の携帯ラジオ、次のウオークマンと言っても、もう無理なのだ。この現実を直視するしかない。
安倍総理はよくぞ解散をしてくれた。国民に投票の機会を与えてくれた事は、かけがえのない当事者意識だ。私は民主主義を尊重する。自民党政権のように、国防に関する事だという理由で、沖縄の民意を無視するような事は、民主主義無視の行為だと考えている。しかし、安倍政権が選挙に勝つならば、アベノミクスを眺めているしかないと思っている。たとえ悔しくとも、公明党の協力なしに、自民党と次世代の党で3分の2の議員を確保したならば、憲法改定の発議もやむえないと思う。しかし、内閣による憲法解釈の変更は民主主義違反である。日本が議会制民主主義の国であるなら、民主主義を国民全体で育てなければダメだ。私はかなりの確率で、自民党が惨敗するのではないかと、一種夢見ている。日本人はバランス感覚がいい。さすがに安倍氏は行き過ぎだと感じている人が多数存在するとみている。問題は、その受け皿の野党が今のところ成立していない。それでもまだ自民党独裁よりはましと考えているのではないか。