里山資本主義3
塩山 3号
「里山資本主義」藻谷 浩介著が世間的にも話題に成り、ベストセラーになった。評判になるに伴って、批判も様々出てきている。この本の評価は以前このブログ1,2に書いた。評価は書いたのだが、全面肯定したわけではない。簡単にいえば、そんなにうまく行くなら簡単だ、というのが、里山にかかわってきた者の実感がある。楽観に過ぎる、いいとこだけ言ってるんじゃん、と言うのは評価しながらもある。バイオエネルギーはいくつか見学もしたが、仕事としては、ほとんどの事例が経済としては失敗している。里山の樹木などすべてエネルギーにした所で、日本のエネルギー消費の5%にも満たない。と言うような意見が正論だと思う。しかし、批判もいろいろ読んでみたが、見当違いの揚げ足取りの様な、重箱の隅をつつくような取るに足らないものが大半であるのも事実だ。正しい批判に対する回答が、実はこの本の背景には広がっていない。つまり里山の見方が残念ながら浅い印象は避けがたい。実践の観点の不足ともいえる。
この本の里山資本主義の考え方は、一般には広げることのできない特殊解の連なりだ。一般解を求めるのが、マネー資本主義なのだから、経済モデルとしては役に立つとは言えない。ほとんどの人に有効なものが商売になる事業だろう。9割の人が車を使うとすれば、車を生産するようにマネーは動く。ところが、里山資本主義では、残りの多種多様な少数派の人が対象である。車を使わない人を対象にして、移動手段を考える様なものだ。それは変わり者であったり、特殊な生活をしている人であったり、そもそも反社会的な人であったり、こうした3%の人の多様な暮らしぶりの人達が対象と言うのが、里山資本主義の守備範囲ではないか。資本主義的な意味での商売にならない話であるから、現代社会の中で普通に利益を上げて生活しようと言う人。あるいは資本主義にどっぷりつかっている経済評論家には、馬鹿げたことにしか見えないのも当たり前である。当然、お金の流れの合理性がない。その上でのことなのだ。
里山資本主義は一種のユートピア思想の一つで、近代的な経済学理論の分析からは、埒外のことに見えて当然である。その前提で、もう一度、さらに深く里山資本主義を考えてみる必要がある。私は同じ範囲のことを、つまりライフスタイルとでもいう意味でいえば、ソフトランディング地点と考えている。マネー資本主義の社会が、きしみ始め、行き詰まる。その兆候は見えてきている。エネルギーの観点でいえば、石油が膨大に産出されたことで、産業革命が推進され、資本主義は目覚ましい展開をした。先に生産力を確立したものは、生産方法を持たない人達を購買層にすることで、資本を拡大して、拡大再生産を計ってきた。それは国内の消費の拡大の余地が大きい地域ほど、生産手段を独占し急膨張が出来る。それが限界に達すれば、国外に消費者を求めて、あるいは、生産コストを下げるために、安い労働力の国に進出する。所が石油には限界がある。コストに反映して、石油を持てる者と持てないものの、非正義が拡大する。それは新たな競争の始まりで、勝者と敗者が出来る。
農業でも機械化することで、生産費が下がるが、同時に石油への依存度は増加する。そして、為替の変動が輸入石油のコストを動かし、農業の利益を動かすことになる。為替と、石油の存在が、競争の主たる要因になる。この影響というものは、直接の、生産性とは別のことであるが、資本主義の競争原理に置いては、単純な価値基準で順位を付けてしまう。その為に、敗者には逃げ場がない。勝者と敗者の格差は人間としての生産能力の価値とは別に、決定的に開いてしまう。こうした価値観の矛盾するの世界は必ず破綻が待っている。大きな崩壊が近づいているというのが、私の感覚である。その軟着陸地点が、里山的な循環する暮らしだと考える。この点が、競走と発展と言う感覚の中に居る人には、脱落としか見えないところだ。良い社会の実際の暮らしという観点でいえば、すべての人が普通に暮らしていることで、大差がつかないことが大切である。その普通の暮らしという観点でも、必要は生産と言うものは、里地里山の中にあるということだ。読みなおしてみると、少しおかしい。又考えてみる。