実践は矛盾する
妙高岳 10号 これは笹ケ峰から少し登った位置から描いたものだったと思う。位置によってまるで違った山に見える。
養鶏を始めて何年かしたころ、縁があって自然卵ネットワークという平飼い養鶏の会に入った。茨木の名越さんという方が熱心に事務局をされていた。私はいつの間にか会を止めたようになってそのままである。紙媒体から、インターネット会員になったことで、関係が薄くなり、また、記事を書いたぶん会費が相殺になったりしている内に、会費を忘れてしまった。この自然卵ネットワークの記事に会員のアンケートがあった。これが実に面白かった。それぞれが色々の鶏種を飼っている。飼った鶏種の感想を様々な角度からアンケートしているのだ。これがまったくバラバラであり、逆の答えもある。当然だと思った。二つ原因がある。コマーシャル鶏は、親鶏に変化がある。もう一つは、飼育する人がそれぞれに違うから実践の結果なのだと思った。
同様のことが、稲作の米糠抑草で起きた。これで全く草がなくなるという感想と、少しも効果が無いという感想が、今でも繰り返し言われる。これも2つ原因がある。実施する人の観察力と、栽培条件の違い。土壌や環境やタイミングで、結果が相反して当たり前だ。研究室の実験でフラスコでやってみても除草剤のような明確な結果は出ない。しかし、この方法は江戸時代から出ては消える技術と言われている。自然農業技術は実践者の観察力に支えられている。どの方法も、工場での技術とは性質が異なる。しかし、自然農業の技術が一子相伝の様なものであっては、これから自給農業を目指す人には困るだろう。これを克服しようというのが、私のこの20年の実践である。誰でもできるように、微妙さを取り除き、一般化する。例えば田植えの深さというものがある。どの深さが最適かという名人芸もある。と同時に度の深さに植えても克服できる苗作りということもある。一人ひとりの体験を単純化する。重要性。
学校田が全国で行われている。とても大切なことだと思う。この実践の授業で大切なことは、種まきから、収穫して、食べるところまでは、子供たちに見えるようにして、しかも周辺の農家より、自然栽培で、沢山収穫することである。そんなことできるわけがないと思うのは、技術化されていないからで、子供たちの沢山の手があれば、むしろ普通の農家の稲作より良く成る。というところを子供たちに体験してもらわなければだめだ。その為に実体験を、どのようにすれば一般化出来るかの工夫である。最近100時間の稲作ということに集約してきた。稲作に費やす年間100時間での自給法の確立である。技術として現在挑戦しているのが、大豆と麦、である。大豆は水田地帯での栽培法はほぼ確立したのだが、山の畑でやるとかなり調子が違う。今年の大豆では、観察をしながら、土中緑化法が根を切る意味が分るように栽培している。
そう思って自分の絵のことを考えると、完成ということが無いのだ。いつも経過である。もうこれで良しという感じが無い。まだまだ不十分という感じがいつも残って、今はここまでという感触である。結論を出すことができないというようなことをかんがえている。その内、死ぬのだから、それまでに結論めいたところに行けるのかどうかさえ危うい。いつも、やり残しているような気分で暮らしている。これは性格からきているのだろうか。諦めが出来ない。明らかにならない。養鶏も結論というものはなかった。田んぼも分らないことがやればやるほど出てくる。来年の百姓というそうだが、実践というものには結論が無いのかもしれない。大きな流れをつかみ、それに乗ることができれば、そこそこの収穫に至る。生きるということはそこそこのことなのだろうか。もっと良い流れがあるのかどうか、それは終わってみてわかることである。たぶん私の絵も、終わってみれば分ることなのだろう。