羽鳥ダムに行ってきた。
爪木崎 10号 面白い場所なのだが、なかなか描く位置がない。爪木崎は須崎御用邸のとなりにある。海の水が澄んでいる。あの透明感はこのあたりでは別格だと思う。
羽鳥ダムは江戸時代から切望された新田開発の夢の実現である。ようやく昭和30年になって着工された農業用のダムである。福島の大河阿武隈川が水量が少なく、新田開発には限界があった。日本海側に流れる、阿賀野川水系の鶴沼川にダムをつくり、太平洋側の阿武隈水系に流し入れ、矢吹ヶ原へ東流し太平洋側に流そうとするという広大な構想があった。明治時代に入り、猪苗代湖を水源とした安積疏水が1882年(明治15年)に完成し不毛の土地であった安積原野が開墾されたことから、阿賀野川水系を利用した新規農地開拓ガ勢いづく。同じく水源確保に難渋していた白河・矢吹地域への開拓を促進するため1941年(昭和16年)より国直轄事業として「国営白河矢吹開拓建設事業」が策定された。戦後の食糧難時代に、この構想を実現すべく着工され、昭和39年になって完成したものである。1500ヘクタールの新田開発が行われた。
ダムが完成してから、50年が経過した現状を見ておきたいと思った。一番の印象は放射能除染作業の続行である。すでに、白河市までの一帯の開発された水田は田植えが終わり、緑も色濃くなり始めていた。除染作業は至る所で行われている。復興事業ではあるのだろうし、仕事の創出にもなっている。こうして、人手不足が深刻化しているのかなど思った。このダムで潤された1500タールの田んぼが現在どれだけ継続されているかは分らないが、福島原発事故は、地域の何世代もの夢を汚してしまった。現在も田んぼのあちこちに除染された土壌が積み上げられている一角があった。これはあまりに見苦しい。美しい瑞穂の国にふさわしいものではない。ここで、田んぼをやっている人の気分も重いものだろう。現在では間違いなく、基準値を上回る様なお米はどの田んぼにもないはずである。最終処分場が50年先まで出来ないようでは、原発は止めるほか道はない。
大平地区では羽鳥ダムによって、出来た村ではないかと思われた。ダムのすぐ下にあった。そこにも区画整理された、田んぼがあったが、耕作されていなかった。この集落から白河方向にでる道に、トンネルを作ってほしいという、看板が立てられていた。トンネルが出来るまで、果たしてこの集落が維持されるのだろうか。原発事故がなかったとしても、東北の山奥の集落はどこも、限界的集落であろう。どのようにその集落が維持されるのかの展望がなければ、交通の便が良くなった所で、何も解決はしないだろう。羽鳥ダム周辺には、スキー場やゴルフ場、別荘地のリゾート開発が行われてきた。良い温泉もあるし、可能性は相当にあると思う。しかし、今のところ、開発の方向が時代に取り残されてきている。ありきたりで、古臭い気がした。果たして別荘地など売れているのだろうか。日本中で多くの別荘地やリゾートが、すでに陳腐化している。どのようにリゾートとしての新しい魅力が作れるのか、未来の社会を勘案して考えるべきだろう。
羽鳥ダムによって新田開発された農地が、今度は国際競争力の名のもとに、耕作できなくなろうとしている。コンクリートから人へ。それだけでないことを羽鳥ダムは示している。問題は、大きな方角を見据えたうえで、国土の整備が出来るかである。ひたすら植林した杉檜を、切り倒して自然林に戻そうとする。いずれも仕事があればそれでいいという、公共事業の地元の要望である。日本という国がどういう国になろうとするのかは、国民一人一人で違うのは当然である。しかし、日本人の良さを育んできた、稲作というものから、離れてはだめだと思う。IT産業であっても、宇宙開発であっても、その根底には、身体を使い食べ物を作るという、人間の生きる原点というものを忘れてはだめだなのではないか。稲作から培った日本人というものが、日本の文化を生み、経済でも世界でトップレベルの国に加われたのだ。今その根が弱り始めて、徐々に衰退の兆しがある。日本人は循環型の稲作農業を作り出し、永続性のある社会の基盤として、文化レベルを高めた所にその価値ある。