都議会のヤジ
西伊豆からの富士 4号 北斎の富士は沢山あるが、西伊豆からと思われるものはない。三保ノ松原からの富士は有名であるが、私はあまり良い位置とは考えていない。結局、朝日と富士と海というイコンは、現実にはない。
これは、悲しくなるようなひどい話だ。都議会議員の塩村文夏氏が十八日、妊娠や出産に悩む女性への支援策を質問中に「自分が早く結婚すればいいんじゃないか」「子どもを産めないのか」「まずは自分が産めよ」「子どももいないのに」などのやじを受けたとしている。都議会として問題がある以上に、これは明確な犯罪行為である。警察が捜査を始めなければならない事案だ。所が都議会議長はこの要請に対して、野次を行った人が特定されていないということで、抗議を受理しないという。身内を守ろうとしている。ひどいヤジがあったことは事実であり、録音も多数ある。暴言を受けた当事者の問題である以上に、公開の議会という場でこういうヤジが行われる、都議会議員のレベルの低さにあきれ果てる。早急に自首するのが人の道である。今回のヤジは人権侵害であり、ひどさは目に余るが、議会などこんなものだろう、さも在り何と感じてしまう所がある。政治家のくだらなさを受け入れてしまっている自分がいる。
議会が議会として機能していない。多くの自治体の議会の現状である。そして多数派でおごっている自民党に自浄作用が失われていることが良く分る。危機管理意識が議会に存在するなら、議会自身が犯人の自首を促すことだ。もしそれが出来ないようなら、議会というものの信用がさらに失われる。議会に信用が失われれば、行政の独走になる。特に、地方自治体の長は独裁的権限の集中がある。それが独裁者石原都政を生んだのであり、猪瀬都政の腐敗である。東京都が地方自治体として、あまりに巨大であり、都民の地域意識が弱いのだろう。このような現状から考えると、橋下氏の主張する地方分権も、大阪都構想も、よほど慎重にやらないと、地方自治体の政治が生活者から離れて、他人事になってゆく。政治では一番重要な部分が市町村の政治だと思っている。ここに分権して行くことは重要だが、よほど市民の自覚がなければ、今回のヤジ事件に見られるような、暴力的な権力者のおごり意識を生むことになる。
では小田原市議会はどんなものであろう。ときに小田原市議会を傍聴に行くことがあるが、ヤジなど極めて少ない。むしろ活気のない議会だと思う。質問も行政の問題点をただすような有効なものが極めて少ない。どちらかと言えば、議員自らの自慢の演説をしているというような物が目立つ。その結果なのか質問の成果が見えない。どうも質問を聞いていない議員が多くて、寝ている議員がいつもいる。テレビ中継は議員席を写して監視すべきだ。野次があるだけましなどとは言えないが、寝ている人は業務怠慢で、議員報酬を返納すべきだ。行政にしてみれば、寝ていてくれるのが一番である。面倒がない。私自身も小田原市議会への興味を失った。反省しなければいけないことではあるが、市民参加ということ、市民協働ということ、これに対して議員の方々はどう考えているのだろうか。今の現状を評価しているのだろうか。加藤市長は一期目に市民参加の企画を提案し、80%の成果があると自己評価した。そして2期目の今、その成果が出ていると言えるだろうか。
小田原市全体の自治体という形の、市民参加の仕組みが、転換期を迎えていると考えなければならない。その転換の方向が、自治体という枠を越えた、主体的な個々人の市民参加の意欲の発掘だったと思う。このことをやりたいという市民の意識を、どのように行政が生かすかである。一人ひとりの中には、地域に対して前向きな意識を持つ人が多数存在する。それを自治会という形ではくみ上げにくくなっている。どのようにすれば個人の熱意を生かすことができるか。自治会活動を負担と感じる人でも、自分の興味のある方向なら、市民活動として自主的に動く方が、多数おられる。そうした意欲をどのように生かすことができるかが、市民協働であったはずだ。しかし、現状では80%の評価どころか、かなり深刻に後退してきている。格差が大きくなる地域社会は、深刻な危機がやってきていると考えた方がいい。