下田の写生地、水彩人研究会
昨日まで、水彩人の研究会が行われていた。とても充実した時間が過ごせた。下田には何十回も描きに行っていると思うが、いそかぜに泊まったのは、4回目である。「いそかぜ」は部屋から海が一望である。下田の湾内ではないので、下田を描くというよりは、海そのものを描く場所ということになる。須崎港というかなりの漁港もある。恵比須島という、不思議な千畳敷きの景観の島がある。海岸線の複雑さといういことも魅力なのだが、ともかく海がすごい。朝日が描けて、夕日が描ける場所なのだ。こんな場所は、めったにない。その上に、畑の景観も良いのだ。畑と言っても、どこも1反はないようなものなのだが、様々な自給用の野菜が作られている。たぶん須崎の漁師さんたちが、作っているのではないだろうか。あちこちに、広がっていて、それなりの手入れの畑でこれが良い。美しい畑というものがあるとすれば、須崎の丘の上の畑ではないだろうか。
「庭の畑」途中 中盤全紙
丘の上の家にはそれぞれに耕されて庭がある。そう言った方がいい位に、丘の上に家が増えている。港のそばに不安を感じて、丘の上の方に移る人もいるのかもしれない。丘の上の家の、3分の1が他所者だと言っていた。つまり、3分の2は地元の人なのだ。なんでそんなことを知ったかと言えば、1軒の家の庭を描かせてもらったからだ。その美しさは、目を見張るものがあった。私の家の畑のと同じくらいの平地なのだが、花と作物が程良く散らばっている。お婆さんが付くらていたのだが、最近あまりやれないので、充分ではないと言われていた。充分でないところが絵には良いとはちょっと言えないのだが、お祖父さんと御嬢さんが、手入れをされていて、私にはこんなに心地よい庭は見たことがなかった。実はこのに葉には、以前から興味があったのだが、他所の家の庭を勝手に書く訳にもいかなかった。たまたま、手入れをされている所に出会えたもので、お願いすることが出来た。
「須崎からの夜明け」途中 中盤全紙
今回は夜明けの爪木崎から大島方面を見た日の出を描いた。3日間天気が良かったので、安心して夜明けを描くことが出来た。その夜明けが、日によって異なった表情になる。雲の状態で、似て非なるものになる。こういうものを見ていると、風景を描くということは、自分の世界を描くのであって、ど上が居てもかまわないという安心を得られる。つまり、黒い海もよし。赤い海もよし。白い海も、もちろん青い海もよし。そうした、眼前にあるものは、自分の世界の材料に過ぎない。よく見て描くというのは、素も視界に写っている情景の、奥にある自分を引き付ける本質を良く見ろということだ。そこにある色や形を追及するということではない。自由にやれ、自由にやれ、と空と海が教えてくれる。ここでは、描いているものは自分の見方だけなのだから、何を描いているのかが問われるだけだ。しかし、真剣に朝日を描いて、少々目をやられた。どうしても太陽そのものの状態を見たくなってしまう。
「うみ」途中 中盤全紙
本命の狙いは、海を描くことだった。庭の畑も、夜明けも、描くことは描いたが、海の絵を描こうと考えに考えて、出掛ける前から考えていた。「平和の海。」そういうようなものを描きたいと思ったのだ。3日間描いたので、この続きを、さらに家で描きたいと考えている。
水彩人の研究会は、本気で一人ひとりが制作をするという稀有な状態が生まれている。夜互いの絵を並べて、意見を交わすのだが、みんな一つ越える機会になっている。自分の殻というか、限界の様なものを越えることは、とても難しいものだ。仲間がいることで、張り合い、又安心して、次に向かい挑戦することができる。もちろんそういうことのできない人もいない訳ではない。他人から影響を受けないで制作するということを信条にしているような人もいる。絵を描く人には多いのだと思う。しかし少しでも自分を成長させたいのなら、自分を一度否定して、解放するしかない。私はそのつもりで出かけて行った。