資本主義の終わり方

   

西伊豆 10号 

憲法記念日に縁起でもない話しだが、資本主義というものが限界にきている。ギシギシきしむ音が聞こえてくる。資本主義は、弱者を食いつぶしながら、資本を膨らませて来たものだ。産業革命以降、早く産業を進めたものが、遅れた地域の人たちを利用しながら、富を集約して行った姿が、資本主義のいう成長であった。それは安い労働力であったり、消費者であったりしながら、資本の競争の中で、材料にされる対象が幾らでもあればということである。ところが、資本主義が進行し、グローバル化して、より精度を高め、遅れた地域というもの、つまり、一方的に搾取されている地域というものは、徐々になくなってきた。もう生産も消費も満杯になってきた訳だ。日本では消費の低迷ということが言われる。今更、消費を増やさなければならないような状況はない。クルマが買える必要な人は、すでに持っていて、買い替え需要である。それはマンションでも、一戸建てでも同じことである。もちろん食べ物でも、余って捨てられている状態すらある。

物があり余る時代。こういう中で、新しい需要を創出するということは、よほどの新しいもので、意味あるものが登場しない限り難しくなってきている。人間の欲望が材料という、消費を美徳とする文化の限界が来ている。世界を見渡しても、遅れた必要な消費が爆発するフロンティアがなくなってきている。グローバル企業と言われるものが、世界のあらゆる国から登場してくる。かつてのように、先進国、後進国という枠組みは失われてきた。技術が普遍化し、画期的な新商品というものが生まれなくなった。こうした中で、さらに国際競争力などと、寝言を唱えているのがアベノミックスである。賃金の上昇と言ってもそんなことが出来るのは、一部分野の大企業である。一次産業や農業はもちろんのこと、自営業のものは、弱者として固定化されてゆく。大企業に力を集中させてゆく、韓国方式は競争には強いが、人間を滅ぼしてゆくだろう。格差の固定化が起きれば腐敗は広がり、社会のリスクは高まる。

アベノミックスは、その韓国方式の後追いをしている。しかも、ナショナリズムを湧きあがらせることで、グローバル企業にすべてを集中する事を、国民に認めさせる形式。全くやることが、韓国の模倣である。韓国の実像をよく観察してみることだ。日本が韓国のようになりたいのなら、つまり、そう先でなく崩壊したいのであれば、世界の競争に巻き込まれればいい。世界の競争はすでに終わっている。残り少ないパイを無理やり奪い合うとしても、限界にきている。国家破たんの時代が来る。日本一国がそこそこ勝ち残ったところで、競争の中に巻き込まれた形ではいずれ、企業が国家を見捨てることになるだろう。安倍氏は昨日ロンドンで日本への外国資本の投資を倍増すると、主張した。その為に法人税もさらに下げる方針らしい。アベノミクスは日本をめちゃくちゃにしそうだ。私は外資の日本進出を歓迎などしない。TPP参加もそうだが資本の競争の激化は、結局強者が勝利して終わる。

人間が豊かに暮らすことは悪いことではない。日本という豊かな国土で、競争をしなくとも、豊かに暮らせる姿を作り出すことが目標だと思う。石油や金が産出されるような特別なことはなくとも、普通に暮らしてゆくことのできる国を実現したほうがいい。日本は特別の有利な条件を持っている訳でもない。自然災害も頻繁に起こる国柄である。原子炉等地震や火山で危なくて作れない国だ。それでも自然を生かしながら、奥深い文化を実現できる可能性のある国。特別な金持ちは必要のない国。そこそこみんなが同じに暮らせる国。そういう普通の国のモデルを実現するのが、日本人の世界に対する貢献ではないだろうか。資本主義はいつか崩壊する。時間の問題だけなのだと思う。その時に人類が悲惨な混乱を逃れ、軟着陸できる地点を示すことが、日本の役割だと思っている。それが江戸時代に貴重な循環社会を実現した日本の役割。日本が世界に貢献する目標。

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