富裕層85人で35億人分の資産
根府川の海 10号 春の海である。ある日海の色は変わる。春の色になる。
世界の富は、富裕者85人で35億人分の資産になる。という記事が目に着く。こういう計算を、どうやってやるのかよく分らないが、要するに富が偏在しているということなのだろう。世界の経済格差がいよいよ拡大しているということだけは、異論はないだろう。これは、ローマ帝国であれ、大英帝国であれ、ここまで富の集中はなかったはずだ。しかも、この経済競争に乗り遅れまいと、日本も今あがいているところである。競争に勝てば少しは楽になるのだろうということで、無駄に鞭打たれている感がある。世界の競争は、平等に見えるが極めて不平等なものだ。85人に入ってしまっているものと、35億の方に入れられたものが、競走など出来る訳もない。経済競争は、強者の論理なのだ。能力主義というものが、正義の一つになっているが、これはまやかしなのだ。子供の学力が親の経済格差に比例するという、分析結果も最近出ていたが、貧しい原因を努力不足という、個人の問題にしてしまう。本当は、どれほど頑張ったところで、貧しいものは、あくまで貧しいという世界なのだ。
頑張れば、そこそこまで豊かになる。これは事実であろう。中国が最貧国を脱し、普通の国家になってきた。これは素晴らしいことだ。中国人全体でいえば、平均的な国民経済はずいぶんよくなったはずだ。と同時に、恐ろしいほどの経済格差が国内に生じた。経済格差が生じるような、社会であるから、経済競争が起こり、世界の競争に勝ち抜けるということがある。そういう競争心が、社会的に活力を生み、すさましいカオスの渦巻の中で、やり抜いたものが勝利者になる。だから、すべての人間にチャンスはあるのだから、この競争は正義の競争だという理屈である。しかし、これが全くの幻影であり、実は、勝者の作ったごまかしの平等なのだ。資源のある国と、資源のない国では、そもそも条件が違う。気候もちがえば、人口もちがう。経済的蓄積もちがう。国家間の競争というものは、すでに置かれた条件という結論が出ている。
TPP交渉に於いて、国家間の交易のルールの壁が取り除かれれば、地域間格差は、さらに大きくなるだろう。確かに加盟国全体でみれば、交易の量が増えて、総合的な経済は活性化されるはずだ。と同時に強者はより強者に成り、弱者は切り捨てられてゆく。そういう社会を望む一番の存在は、グルーバル企業である。自動車会社にとっては、悪い訳のない話である。しかし、自動車会社が良くなることで、日本の経済が良くなるとは限らないという結果が、最近の経済にはあらわてきている。日本国内の経済を考えてみても、地方と、都市の間では、平等の競争が行われている訳ではない。地方が教育を担当し、老後を引き受け、その果実を都会がとるということがいわれる。過疎地域は人間が住まなくなり始めている。こうして、全体でいえば、社会がアンバランス化し始めている。これと同じことが、国家間でも起こるということだ。そういう社会に人間は耐えられるのだろうか。
このまま行けば、日本も韓国のような社会になると考えなくてはならない。日本国内にも外国人を排斥しようという、人種差別論が蔓延し始めている。恥ずかしい傾向である。これは、日本が格差社会になってきた一つの兆候である。人間的な余裕が失われてきている。明治時代に鼓舞された、国粋主義の傾向と似ている。競争心を煽り、自分達だけを尊いとする思想。富の偏在、そして、富への執着。これは文化的価値を見失った結果だ。それぞれが本当に幸せに暮らすということを見失っている。経済以外の価値を見いだせない地代。江戸時代にあった日本的な安定継続の生き方。これをもう一度、封建的でなく取り出してみる必要がある。生きて行けるなら、後何が必要なのか。充実して生きるということはどういうことなのか。このまま日本人が国際競争に翻弄されてゆけば、人類の生き延びる価値観を見失うことになるだろう。