調査捕鯨のまやかし

   

牛窓 10号 

日本捕鯨協会というものがあり、調査捕鯨の正統性をホームページで主張している。何でも主張するのは構わないとはいえ、国際司法裁判所で判決が出て、それに従うと政府が宣言した以上、いつまでも見苦しいことはやめた方がいい。世界の常識に従うことが、日本の国益に沿っている。林農林大臣が、思わず口にしたように、クジラは日本人の食料という意識がまだある。調査捕鯨と言いながら、実は日本人の食料を捕っているという、まやかし行為が良くないのだ。捕鯨協会によると、科学的な調査の為には、クジラを殺す以外にないと強調している。しかし、捕鯨協会はどれだけ、生きたまま行う調査をやってきたのだろうか。やりきれないほど、生きたままの追跡調査をして、やむ得ず殺しているのかということではない。殺さない調査はほとんどやりもしないで、殺す以外にない調査の必要性だけを、強調している。誰が考えても、調査の名を借りた、商業捕鯨だ。この論理を読んでいると、北朝鮮を思い出す。

このことは、実は稲作にも言えることだ。稲作はまさに、既得権の哀れな結果である。減反やら、転作やら、あらゆる保護政策を行い、産業としての力を失った。稲作をまともな生産に戻すためには、調査稲作などという、ごまかしではだめだ。産業として日本国内で、どこまで合理的な稲作が可能か、徹底してやるべきだ。私の計算では、北海道や一部東北地方なら、国際価格の2倍くらいの生産コストには、可能かと思う。2倍なら、日本産を食べようとい人もいるだろう。徹底した経済合理性の中で、稲作の洗練をやり尽くした上で、どう考えても成り立たないが、残す必要がある稲作があるのかを考えるべきだ。日本全体を考えたときに、地方の社会いうものは必要に思える。人間が育ち、老後を過ごす地域。若い時に働く地域というのもある。全体がうまく機能して、日本という国全体が豊かな国になるはずだ。その日本の活力を再生産するような地域として、地方社会が存在するのではないだろうか。

調査捕鯨は、林大臣の主張の通り、日本人の食料確保の歴史なのだ。今回南極海の調査捕鯨は禁止になった。そして残りの北西太平洋の捕鯨をどうするかである。やるなら、調査などというインチキの主張をせず、食糧確保の為と言ってやるべきだ。当然費用的にも、国の補助金など一切なしでやるべきだ。何故、捕鯨反対かと言えば、既得権を死守しようという流れに未来はないからだ。原発の既得権益思い出す。既得権にしがみつく生き方では、日本の未来がないからである。捕鯨にかかわる一部の既得権者の利益を守るために、日本という国全体のイメージが損なわれる。ずるがしこい国だの印象を広げている。調査と言い張りながら、上手く食料をかすめ取る国、というイメージが補強される。誰だって、他所の国の要領よいやり方は、不愉快になるのだ。調査捕鯨という言葉にある詐欺行為が問題なのだ。調査の為に税金の支出が行われている。しかも、石巻の復興予算が流用されたことまである。すべては既得権の死守なのだ。

確かに捕鯨をやめれば、失業者も出るだろう。どんな産業でも同じことだ。その対策はしなくてはならないが、鯨研は年間50億円程度の予算を組んで調査捕鯨を行ってきたが、これまで毎年受けてきた7億円~10億円程度の国庫補助金に加えて、2012年度からは約45億円(鯨類捕獲調査改革推進集中プロジェクト)という多額の補助金を追加で受けることで事業を維持している。そもそもクジラ肉の需要が減ってきているのだ。食べるものが不足した戦後ならともかく、クジラ肉など上手いものではない。調査捕鯨で捕ったクジラ肉がだぶついてきているのだ。調査捕鯨がなくなり、商業捕鯨が再開できるかと言えば、もう不可能な状態にまで来ている。国際司法裁判所の判断に従い、一切の捕鯨を辞める時だ。それが日本の国益である。どうしても食べたいのであれば、日本近海の捕鯨の範囲である。補助金をそこに使えば、わざわざ遠くまで行くより、はるかに効率的だ。

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