犬の気持ちとシーザーミラン
石和 桃の頃 10号 何故、桜より桃が面白いか。それは桃は実を取るために栽培をしていて、畑という合理性の中で植えられている。桜は、花を見るという都合で、並木のように植えられる。自然との兼ね合いの見つけ方が、やはり作物の方が面白いのではなかろうか。
ザ・カリスマドッグトレーナー~犬の気持ちわかります~という問題犬を、たちどころに直してしまうテレビ番組がある。シーザーミランの犬の扱いは際だっている。惹きつけられるように見てしまう。確かにこの人はすごいドックトレーナーだと思う。要するに犬の気持ちを完全に把握している点だ。逆にいえば、問題犬にしてしまう飼い主というのは、どれほど犬の気持ちを分っていないか、ということだと思う。犬は言葉で行動している訳ではない。相手の考えていることを、態度や雰囲気から読んでいる。飼い主の心理状態をあらゆる情報キャッチ能力で、感知しようとしている。シーザーミランは問題行動の原因は、すべて飼い主にあると考える。犬との支配関係を築けないことが、犬を不安にさせ、増長させてしまっていると考える。飼い主が、堂々と犬を支配出来れば、問題行動は解決できるので、犬より飼い主を正す、というのが、基本的なトレーニングのやり方である。参考に成るところは色々ある。
しかし、シーザーミランの犬の飼い方も、全く一つのやり方に過ぎないということを考えて置くべきだ。つまり、この犬の飼い方は、私にはまったく面白くない犬との関係なのだ。私もシーザーミランと同じに、アメリカンピットブルを飼ってきた。コントロールできない犬にしてしまうと、大変困る犬である。しかし、犬と私は、ともに生きる同志である。私が犬を支配している関係を素晴らしいとは思わない。犬が家来であり、配下であるという気分より、犬は、日々を共に生き抜いている仲間であるという意識で居たい。これは子供の頃飼った、甲斐犬がそうだった。足安からイノシシを排除するために、わざわざ連れてこられた犬だったが、その犬を放すだけで、イノシシは集落に来なくなった。全く一日中自由に山を走り回っていたが、山に向かって呼ぶと、たぶん10キロ以上も距離のある山の奥から、一直線に駆け下りてきた。人間に対して、対等に近い仲間意識があった。
例えば、散歩のときに、犬は前に出たがるものである。私はそれが当たり前だし、前を行き、好き勝手に歩くのが、犬の気持ちにとっていいことだと思っている。それを人間の脇に制御して付いてこさせるのを良い訓練が出来た犬とは全く思わない。一部の問題行動のある犬の改善の訓練を見て、すべての犬がああでなければならないと考えてはいけないと思っている。問題行動を起こす犬の飼い主の、人間的な問題点を直すことが大前提であるということは、賛成である。しかし、犬を飼うということは一つではない。シーザーミランのやり方は、あくまで問題犬の訓練であってすべての犬の飼い方が、犬を支配するやり方であるべきと、受け取ってしまうのは安易すぎる。犬の魅力の根底にあるものは自由に犬自身が発想する活力あるオーラである。これを阻害しては何にもならない。自己主張のないような犬を飼っても仕方がない。
生きる同志としての犬は、自立している。私が支配している訳ではない。そして、絶対なる信頼関係で結ばれている。そうした犬との信頼関係を作り上げる為には、シーザーミラン流とは少し違うやり方が必要である。ともかく一緒に散歩してやることだ。犬が歩きたいという間一緒に歩いてやる。こういう1日を時々作ってやる。好き勝手に歩かせて構わない。本当なら、リードから外して山を一緒に歩きまわるのが良い。子供の頃はいつも犬と一緒に、山を探検して歩いていた。山ではもちろん犬に助けられることの方が多い。しかし犬が、人間を支配するなどということには絶対に成らない。犬と人は助け合う仲間としての信頼関係が形成されてきた。犬というものは、それくらい人間を好きなものなのだ。その絶対的な信頼感に、その期待に答えられる人間に自分が成れるのか。むしろこのことの自己確認が、犬を飼う一番大切な所ではないだろうか。犬から何を学んだかである。たぶん、人生のもっとも大切な生きる姿勢のようなものは、犬に教えられたような気がする。