水彩画の描き方
肥前 瓜ケ坂。手前の半島の上に乗ったような集落が、なんとも良かった。10年前位に竹中さんの家を訪ねた時のことだ。10号大
今やっている絵の描き方を書いておく。描いている絵を並べて於いて、気がついたことを描き加えてゆく。このやり方は昔からそうであった。一枚の絵を始めから終りまで描くということはない。それは風景を現場で描いていても同じやり方である。白い紙に直接筆で描き始める。最近は庭を見て始めることもあるが、大抵の場合は風景をどこかに描きに行く。描きたいと思ったところを描くのだが、描く前に何を描くかが決まらなければ描けないので、描かないまま帰ることも多い。スケッチとか、下描きというようなことはしない。ともかく、描く手順を捨てる。筆を取って絵の具を溶き始めた時も、どうやるかは決まっていない。無心になるようになるようにして、筆に任せて始める。その時今までやったこともないような仕事でありたいと願う。前やったようなやり方で、前あったような方法で、手慣れた仕事をするということを、とにもかくにも避けたいと考えて始める。自分がびっくりするような絵を描いてみたいと思う。
といっても、何か工夫するとか奇をてらうとかではく、素朴にごく当たり前に正面から描く。それ以外にやり方もなく、要するにそれが自分というものに近づく道だと思っているからである。それはいつも失敗に終わるし、今度は出来るかもと繰り返しているだけである。出来ないのにできるかもしれないと思ってやる仕事というのも変なのだが。たぶん20分ほど続けて描いていると、もう描くことが無くなる。無くなったら一まずそこで筆を置く。そうして次の紙を取り出して、大抵は同じ場所か、その近くか、後ろを見るかして、又ただただ描けそうな気がするところを描いてみる。これもまた、20分ぐらいで、行きついてしまい描けなくなる。大抵の場合は、又、1枚目の絵を描いてみる。案外に描くことが出てきていて、又、20分描ける時もあるし、5分ほどかける時もある。全く壊してしまった感じになり、焦ってどんどん描いて行くこともある。あれこれ描きながらも、大抵は又20分ほどで描くことが無くなる。
そこで3枚目に入る。これも大体は同じ場所で描く。1枚目、2枚目が反映するのか、また違う絵になる。この頃になると、描こうとする正面を見て描いているのだが、私以外はそこを描いているとは思えないだろうというような状態になっている。しかし、それも1枚目と同じで、真正面から素朴に見たものを描いている意識は出来る限り変えないようにする。同じ意識であるが絵は変わる。何故だろうか。そして、また1枚目、2枚目と繰り返し、描いて行く。こうして午前中で3枚ほどの絵が終わる。午後も続けてやることもある。やるとしても、また新たに描き始め、3枚ほどの絵を描くことになる。そして、持ち帰った絵を見えるところに並べて置く。こうして、並べてあるのは何十枚もあるから、普通にご飯を食べていたりして、気が付いた事があればすぐ絵を描き継いで行く。一枚を描き始めると、10枚ぐらいどんどん気が付くことが出てくることもある。
絵が描き進める時に気を付けているのは修正をしないということである。絵はどうせ自分を越えることはない。装ったところで仕方がない。下手で結構、上手いよりは増しである。おかしな所を直すというような気分のときには、絵を始めない。絵を描き継ぐということが、水彩画の大切なことだ。新鮮な気持でない時はやらない。どうせ修正すれば欠点はないが、くだらなくなるからだ。描き継ぐ時は、ぶち壊して新しい絵を描くぐらいの気分である。どの道一枚絵が出来ようが出来まいが、関係もない。いつか自分に到達出来ればいいのだと思っている。そのために、探求しているのだから、姑息な考えは無駄だと思っている。あれこれ進めてどこで終わるかが勝負だ。だから、20年間繰り返し描いている絵も沢山あるし、一回で終わる絵もある。出来たと思っていた絵が、又始まることなどよくある。今はこうして絵を描いている。