箱根駅伝
蔵王、ファブリアーノ10号。もう一息まで来ている絵。最後の一筆を探しているところ。
今年も箱根駅伝の観戦に行った。観戦に行くぐらいだから、当然2日間何度もテレビは見た。今年は90回の記念大会で、出場校も23校だった。昨年は風で立っていることがやっという中で応援したのだが、今年は好天に恵まれ、風もなく穏やかな駅伝日和だった。昨年以上の人出であった。私は事前に各大学の選手の名前を調べて置く。目の前を通る時に、名前で応援するためである。大学名でもいいことは良い。拍手の応援だけより、「明治、走れ。」「農大、ここだぞ。」より、「柏崎行け」「大迫、いいぞ。」と叫ぶことにしている。ちょっと恥ずかしい気分もあるが、沿道の雰囲気は熱気があって、全く問題ない。それぞれに声をあげて応援している。どうせ声を上げるのなら、名前が分った方が応援に力が入る。選手も名前で呼ばれた方が、気分が良いかもしれない。駅伝というと母校のタスキが強調され、どうしても集団が重視され、個別性が注目されない。もちろん、瀬古さんとか、柏原さんとか、名選手は別であるが。
箱根駅伝に出るのは、それだけで陸上長距離界の選りすぐりである。私も高校駅伝の東京都予選には出た。といっても予選会で世田谷学園は36位くらいで、東京都の全体の真ん中ぐらいだった。その時保善高校が選ばれた。その保善高校が、全国大会では中位だったから、全体でいえば弱い高校の弱い選手だった。自衛隊跡地の世田谷公園で練習していた。一周1キロの外周道路を10周走る。インターバル練習が多かった。すると、そこに国士舘の駅伝チームが現れ、同じように外周道路を走る。何とかついていけないかと思って、みんなで追いかけるのだが、一周でもついて行けなかった。この弱小の中のその一人。無名性の群の中に埋没して行く感じ。全力でその他大勢をやる安心感みたいなものが、長距離走をやっていた気分だったと思う。努力はかなり出来るのだが、努力に耐えられる体が無い。限界まで走りくるぶしを痛めてしまった。限界がすぐ近くだった。校医だった三宿病院の先生が、君の体では無理だと断言した。まあ、見るからにそう思うしかない。
勝つとか、負けるとか、そういう競争というものを高校生の時に限界まで味わった。努力をしたからといって、人との競争には勝てるとは限らない。では努力は何のためにするのか。私は自己新ということを考えた。昨日の自分より今日の自分が前に進んでいる。箱根駅伝を走る選手と言っても、多くの選手は、その後実業団で選手になるとか、オリンピックで走るとか。そういう訳ではない。これから様々な仕事に就く訳である。弱かったからここで終わるということでもない。やるだけやり、箱根駅伝に出るという、偉業を成し遂げたのだと思う。実業団駅伝に出ても、山登りの神様である柏原選手は案外に目立たない。さらに頑張り、成長して、オリンピックに行けたとしても、世界での競争に勝てる可能性は低い。アフリカ勢の強さはケタはずれである。日本民族の人類としての基本的な身体構造の優劣を感じさせられる。
それでも精一杯駅伝を走る。そこがいいのだと思う。県大会予選で予選落ちするだろう、選手であっても、そのひたむきに走る価値は、オリンピック選手と何も変わらない。そのひたむきさだけは負けない気持ちで走れば、必ず自分を育てるものがある。そうやってきて、選ばれた選手が箱根駅伝を走っている。今年の早稲田の第一走者大迫選手は、今年一番の注目の選手だった。彼はアメリカで練習をしているのだそうだ。異端である。テレビの解説の早稲田の大先輩瀬古さんは何となく口ごもる感じだった。大迫選手はチーム練習をしないことを聞かれたときに、これが普通のことになると答えたそうだ。駅伝というチーム競技のなかで、個人ということを重視しているのだろう。ところが、不本意な結果であった。批判も出るかもしれないが、こういう時こそへこたれないで、異端を貫いてもらいたいものだ。