絵に常識はない。

   

絵画の世界には、いかにもそう思えるようなことで、実はそれが良くない、ということがある。絵の常識に従うと、絵の進歩の障害になる事もある。まず、いつも気になっているのが、絵を描くにはデッサンの勉強、訓練が必要という一般論である。日本の美術学校の入学試験にデッサンがある。絵を描いてみようかと思い立った多くの人がそんな考えを持つものらしい。デッサンというものが、絵の基礎になると思い込んでいる専門家も結構いる。デッサンから入ると、良くない結果になると私は考えている。20歳までならいざ知らず、普通はデッサンの勉強が却って災いする。デッサンをやるというのは、眼を訓練するということである。目がその人なりに出来上がってから、訓練するということは障害を起こす。デッサンというものを、眼に見えるものを写す技術と言い換えてもいい。移す技術だけを抜き出せば、自分の絵に至る障害になる。物を見て、写し取るなどという技術は、なければない方がいい。これは詭弁ではなく、今までやってきた結論である。ものを見るという能力を高めるためには、写し取る目はマイナス要因になる。

ただ写真的に見えているという状態は、絵とは関係のない見え方である。百姓が作物を見ている見方は、他の人には見えない。AKBの判別は、高校生なら出来ても我々にはできない。絵描きが見るということは、その人の人間を通して、絵画世界を見ているのだ。絵画に於いて「みる」ということは、自分の思想や哲学を見ているということだ。もしそっくりにやりたいなら、今の時代写真にすればいいだけである。写真より人間がやったという絵画に魅力があるとすれば、むしろ人間というフィルターにある。絵は精神の問題である。心の表現である。見えているものといっても心が育てた見え方で描くものだ。心の中にあるものだから、それを見る為には、心を育てることが何より肝心である。手の訓練としてデッサンをやるというなら、障害にならないように、ただの線を引く訓練をした方がましである。墨絵などではそういう修行がある。

絵の構図は上下2分してはならない。これも時々聞く。構図がこうあらねばならないなどという、理由は全くない。決まりによって考えることは、発想の自由を妨げるばかりである。構図というものは、自分が見えているものの、画面への取り込む骨組みである。画面という小さな世界に、宇宙を作り出そうというのだから、一般的なやり方などある訳がない。「絵を逆さにすると、バルールの狂い」が分かるという常識もある。これも愚かな絵の判別だ。バルールは、逆さにしたら崩れるのが当たり前のことだ。バルールというのは、画面の秩序であって、自然の成り立ちと整合していればいいというものではない。奥行きを要素として、扱う絵もある。平面的に色彩を構成する絵もある。別段つじつまが合っているということを、バルールというのではない。大きな画面の構成、成り立ち、ここに作者の精神が反映しているかが問題なのだ。おかしければ、自分の体が反応するまで、たくさん描くほかない。

絵を描くということは、自由だということだ。でたらめであろうが無かろうが、自分らしくを見つける手段である。こういう絵がいい絵だという前提は、商品絵画の評価の世界のことだ。商品世界の中では、販売評価が存在する。日展でおかしなことが表面化したのは、すべて営業と権力欲のなせる業である。そういう世界から離れて、自分の為だけに行うのが、「私絵画」の世界である。自分にとって、よく出来た絵画と同じということが、価値観であるなら、絵画の常識に従えばいいだろう。私という、いまだかつてないものを求めているのが、私絵画である。芸術行為は未知なる世界に踏み込むことだ。だから面白い。人に褒められたところで、それまでのことだ。自分自身へたどり着く為には、一切の絵の常識を取り払うことだ。そして、眼を育てる。それは自分の人間を深める以外にない。そのやり方の本当のところは分らないが、私は日々真剣に生きるというほかないと思っている。

 - 水彩画