梢の空

   

梢の空は青い。梢の上の空は絵になるぞと見える。枯れ葉が舞い降りてくる季節は、見上げては空の青さに驚く。竹藪の片づけをしていると井戸の底から空を見上げることになる。実に空は青い。竹の先が示す空は、限りなく奥行きがある。あの空を描いてみたい。しかし、こういう色は描くことなど出来ないだろうと描く前から分っている。山の上の空は、無限に広がる。山のその向こうまで空である。同時に自分の上の空でもある。山のあなたの空遠く、幸いすむと思いきや。山の向こうには鬼が住む。希望というものは、不安ということである。頭の上にある空は、清々として悩みを吹き飛ばす青である。遠くの山の向こうの空は、虚空である。現実を描くのか。希望を描くのか。はたまた何を描くのが絵なのか。梢の空を描いてみたいと、思った自分の気持ちは、実は絵になりそうという邪心で見ている。自分の絵という枠で空を限定して見ている。絵の目は色眼鏡。

梢は自分の位置を示している。梢には、幹があり、根があり、大地に起立している。青い空を指し示すように、梢は指を伸ばしている。梢が指し示す、空はその在り方を明確に示され、限定される。言われて、指示されて初めて自己存在は確認されるということになる。たぶん、岬に指される、海もあるのだろう。海はただあるのでなく、陸が海の下に潜り込みながら、海は陸にかぶさりながら、その境界を示している。これは2つの世界のせめぎ合いを感じさせるものかもしれない。「岸辺の思想」とでも名ずける思いがある。それは中世と近世の出会う時代。時間の岸辺。大きく波が津波のように陸を飲みこむ、激動の時代。海を描きながらそういう、ばかばかしい思いに引きづり込まれている。繰り返す波が時を刻むように、時間を感じさせる。視覚というものは、時間というものの込められた存在の意味を見ようとしてしまう。何者かを見ているという幻想を抱く。

河口は特に引きつけられる。海と大地が出会うことの意味等、ある訳がない。ある訳がないのに、眼が河口に引きつけられるのは、眼が想念の窓だからだろう。川には源流があり、辿る道がある。旅の終わりに海に出会う。真水が海水に混ざりながら、渦を巻く。渦の中に巻き込まれてゆく、葉から落ちた一雫のことを想像してしまう。梢から落ち続ける、枯れ葉のことを連想する。海の塩辛さに驚き、次々に巻き込まれてゆく川の水。時代の区分に、蒸気機関の登場、産業革命という考え方がある。大量生産方式による、資本主義の支配。私の中の、原発事故以前と、以降の時代区分。梢の空の青も変わる。離れてみれば、絵は時代の気分を反映する。それは、人間の目というものが見てしまう世界は、感情に支配されているからだろう。原発事故以降絵が描けなかったということは、理解が出来なかったからだろう。理解が出来ないのだから、絵として見ることが出来ない。見えない以上描くことはできない。

今描いている梢の空は、山のあなたではない。今の自分の位置である。もう少し正直に探れば、インチキの自分のことだ。あの空の青さは私がそうみたい色と考えている青だ。見えているように描くことのできない自分のことだ。見えていないものを作り上げてしまう自分のことだ。絵はできないことに向かうしかないもの。願いの青。紙に水彩絵の具で、素朴にそのことに向かおうとする。水彩人はそう宣言して始まった。同人としての方角が示された。絵はかなわない願い。願いを手繰り寄せる祈りの作業。マチスの絵のたどった道は、マチスがマチスになってゆく道である。中川一政氏は最初に描いた絵に、生涯をかけてたどり着いたと書いている。今日描く絵は、笹村という人間に、少しはたどり着けるのだろうか。絵具の水分濃度の違いによる多様な調子。色の意味と色の量の関係の整理。筆触の方向によって変化する画面構成。そうしたことによって複雑化する、バルールの操作。筆触に自分の精神を込めるために、すべて技法を傾注する。

 - 水彩画