大麦を蒔く
2016/04/05
小麦の会の発芽してきた様子。
播種16日目、今年は成長が早い。
今年は麦を家では作らないつもりでいたのだが、畑が冬の間、空いているのも土壌には良くない。大麦の姿はなかなか良いものなので、少しだけ蒔くことにした。11月25日夜雨が降るというので、3時から急いで播いた。昨年は6条大麦を蒔いたのだが、麦茶の味としては、もう一つの感じだった。今年は、2条大麦を蒔いてみた。畑の準備は出来ているので、種が届いて、すぐに蒔くことが出来た。6条大麦が麦茶にするといいというので、昨年は作ったが案外の味だった。その前に作ったたぶん飼料用という大麦の方が、麦茶にしておいしかった。記憶をたどるとそれは2条大麦だったと思われる。2条大麦はビール麦である。雪印種苗の2条大麦が1キロ1000円で売られていたので、ネットで購入した。今年蒔いてみてどうなるかが楽しみである。45センチ間隔で長さが15mで12畝蒔いた。つまり180メートル蒔いたことになる。2畝ほどだろうか。それで700グラムほど使った。播種機の小麦用ゴンベイで蒔いた。
大麦を作る一番の良さはその美しさである。風景を作る仕事をしているという喜びがある。山梨の山村は、田んぼより麦の畑が多かった。どこの家でも麦を作っていた。子供の頃の記憶が残っている。一面の麦の美しさは格別に感じらえる。麦は、踏まれて強くなる。葉を折られて葉を茂らせる。雑草魂を持っている。小田原の気候では冬の寒さに成長できる。冬だから雑草も控えめである。麦踏も家の畑の程度なら、楽しめる。作ること自体が心地よい作物だ。主食のお米と違って、ある程度余裕をもって接することが出来る。麦を作るということは、風景を作るということだと、実感する。舟原あたりでも見渡す山が全て麦畑だった時代があるそうだ。戦中の航空写真を見ると、それは足柄平野の山間部はすべて耕作されている。そして冬場はどこもかしこも麦を作ったはずだ。それは平野部の田んぼから、今里山と呼ばれている場所まで、大半が麦のはずだ。
麦畑の跡はみかんに変わっていった。そして、みかんが採算が合わなくなり、跡地に杉檜の植林がおこなわれた。その杉檜に経済性が無くなり、住宅に迫る形の杉檜が放棄されるに至っている。里山の美しさは半減した。今、山村に残って暮らしを続けているのは、お年寄りばかりだ。世界中がそういう傾向になっている。経済が成り立たない地域だから、若い人が住みたいとして難しい。本来であれば里山の暮らしほど、生きる豊かさの感じられるものはない。子供が育つにはこれほど良い地域はない。日々の暮らしが自然の変化の中に成り、自分が生きているということを確かめながら暮らせる。自分で育てたナス一つを食べて、喜べる暮らしだ。そういう身体を使い、自然に手入れをしながら、面倒くさい労働を経て、食べ物が出来、生かされてるということのはずだ。金融資本主義で、利息や運用で、莫大な利益を得る様な暮らしのどこがいいのだろうか。その方がいいとする人間が、世界の大半に成り始めている。
麦は寒くなる時に緑の芽を吹く。この健気さというか、逞しさが麦を育てて嬉しい。子供の頃の記憶で確かではないのだが、大麦は山梨では寒くて出来ないので、小麦を作ると言っていた気がする。本当は大麦が作りたいのに作れないという前年な気持ちがあったように記憶している。大麦は春になって蒔いていたように思うのだ。麦ごはんを食べていたのだから、大麦をかなり作っていた。持ってゆく通し麦にしてくれるところがあったはずだ。冬の小麦と大麦の栽培が鮮明には思い出せない。ただ春の田んぼに、麦があったことは確かだ。今押し麦にしてくれる場所などないのだから、使い道は麦茶にして、醤油にして、その位のことだろう。ビールまでできれば面白いとは思うのだが。