国際有機農業映画祭2013

   

11月23日に法政大の市ヶ谷キャンバスというところに出掛けた。法政大学が市ヶ谷にあるということすら知らなかった。ずいぶん立派な建物で、最近の大学はこういうところなのかと落ち着かなかった。こういうことが地方と、東京の違いだとも思った。映画祭は今回7回目ということで、今年大豆の会に加わった人も、この映画祭の運営にかかわって働いている。他にも何人か知り合いが運営委員会に居る。それでもなかなか東京まで映画を見に行く余裕というものがなかった。今年は、他の活動を休ませてもらって見に行った。勤労感謝の日なのだから、作業より映画を選んでもバチは当たらない。東京に行くということ自体が、年に何度かの特別なことになってきた。実はどうしても見に行きたい内容があったのだ。沖縄の恩納村から、仲西美佐子さんが見えて話を聞けるということだったからだ。紹介には恩納村の百姓とあった。この方を知っているという訳ではなく。沖縄の地元の百姓と自ら言われる方の話を聞きたかった、

予想通り、素晴らしい方であった。沖縄というところはやはりすごいところだ。日本文化の上質なものが、上澄みのように浮き上がってくる。冒頭言われた言葉が、「戦わない文化」ということだ。中国、朝鮮、薩摩という圧倒的な武力に対し、どのように戦わないで、沖縄を継続させるかに腐心した。そこから、緩やかな、したたかな琉球国が生成されてきたという話だった。ヤマトンチューのことを、あくまで日系人と呼んでいた。とても強靭な精神の方であることも分かった。大和政権が北に進みアイヌの人たちを北海道に追いやったように、南に進んで、琉球人を沖縄に追い込んだ。文化的に追い立てられながら、支配されながら優しい世界を作り出してゆく。紅型を見るとそういう文化の受け入れと沖縄化が良くわかる。しかし、この優しさの背景にある、過酷な現実。沖縄地上戦における、地獄のありさま。映画祭では、未来的なチュラ海水族館の向かいにたたずむ島、伊江島の悲惨な、日本軍の命令によって、家族を殺した歴史のドキュメンタリーが上映された。

日系人、日系人という言葉が出てきた。つまりヤマトンチュウのことである。琉球国沖縄の異民族感覚。被支配国の悲しい感情。現在も基地負担を押し付けられ、見て見ぬふりをされている沖縄。アメリカ軍という形を借りて、現在も日本国に利用されている土地、沖縄。鳩山氏は学べば学ぶほど、沖縄に米軍に居てもらわなければならないということを知った。と述べて総理大臣を止めた。日本の防衛のために、何故、沖縄に米軍が集中して存在しなければならないかという理由を学んだとしたら、それを総理大臣は国民にわかるように説明する責任がある。米海兵隊の、海外、少なくとも県外移設を主張した鳩山氏が、何をどう学んだのかは、結局一番大切な部分が国民には知らされていない。国内に受け入れる、移転先がないということだけは、分っている。北朝鮮の長距離ミサイルと、核弾頭。中国の軍事力の格段の増強。

すでに沖縄の立地的条件は薄れている。海兵隊のすべてを韓国、グアム島に移転してもアメリカとしては問題がないはずである。フィリピンから引き揚げたアメリカ軍。むしろ問題は日本国の防衛に関する考え方にある。沖縄に押しつけて置く以外にないという、日本国の傲慢と国民の傍観。原子力発電を過疎地域に立地する論理と同じ。お金で、補助金で我慢させる構造。実はこれは農業に対する、政府の考え方と同じことだ。これが農業の映画祭で、沖縄問題を取り上げる根拠だろう。農協には補助金をやるから我慢しろ。その他のものは、圧迫を続ければその内収まるだろう。この馬鹿げた資本主義構造が、金権支配の構造。これ以外には国際競争に勝つ道はないという、国民への脅し。ここを生き延びるためには、弱いものが、強いものを巻き込んでしまう。沖縄の、「戦わないで勝つ方法」は素晴らしい考えだ。「ニライカナイ」の思想。有機農業ではなく伝統農法と呼びたい。(またあらためて。)こうした弱い者の勝ち方こそ、世界の希望だ。

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