デザインからアートまで
吉岡徳仁氏の展覧会が、東京都現代美術館で開かれている。たまたま、ラジオを聞いていたら作者が自分の作品につて語っていた。吉岡氏はそもそも桑沢出身のデザイナーなのだそうだ。三宅イッセイ事務所に居たというから、ファッションデザイナーでもあり、パフォーマンスの手伝いなどをしていた人なのかもしれない。今は自分で事務所を持ち、100もの仕事を同時進行で進めているというから、今どきの人なのだろう。なんでこの人の話に興味が惹かれたかと言えば、「デザインからアートまではグラデーションで繋がっている。」と芸術とデザインの関係の質問に答えていたからだ。この感覚からすると、アートから芸術までの道のりは、まさしく断絶があると言わざる得ない。まさにここに「私絵画の問題」があると考えられるのだ。アートの連なりに芸術というものが存在する訳ではないということだ。
デザインというものを考えてゆくと、いつも経済というものと結びついている。これが現代的な仕事になるゆえんである。その意味で、商品絵画というものは、デザインとグラデーションで繋がっているということは言える。こんな風に書くのは、物の見方であって、個人を批判したり作品の価値を判断しているのではない。小林秀雄氏が近代絵画論で書いていた芸術というものの意味でいえば、芸術の自己表現ということとは、世界が違う。デザインするということは機能性だろう。あるいは説明をするということになる。アート的要素を商品に加えるということが、デザインと言ってもいいのだろう。だから絵を批判する時に、「デザインのようだ。」という言葉と、「文学的である。」は良く出てくる。良く出ては来るが意味は曖昧なままである。大抵の場合は説明的であるとか、絵画以外の要素で描かれている。という意味になる。一方パフォーマンスと言われるものは、一見芸術と距離があるようだが、実は私絵画の連なりにある。実際にはショウ―的な意味に使われるが、行為そのものに価値を置く自己完結行為である。
「デザインからアートまではグラデーションで繋がっている。」という考え方は、このあたりの意味を考える上で、とてもヒントになったのだ。葛飾北斎は自分が芸術家であるという考えは持たなかっただろう。今時の言葉でいえばパフォーマーであり、アーチストである。当時の美術家は、江戸の身分制度の中で画師として形骸化して、別に存在した。日本にはもう一つ、美術というものが存在する。現代美術というのは、どうもアートとは、あるいはデザインとは近いらしい。だから、現代美術館で吉岡氏の作品展が行われるのだろう。現代音楽というものが、クラシックというジャンルにあるのとよく似ている。訳がわからないところが、芸術っぽいというぐらいの位置づけの気がする。芸術がどこかへ行ってしまって、見当たらないので、これも芸術の一種なのかという程度で、きちっとした美術史的把握をする事が出来ないでいる。そのために、伝達性を意識した、デザインとか、アートとか言うものが、何か芸術の枠なのだろうという程度で考えられている。
まあ、そんなことはどうでもいいことなのだが、そこから「私絵画」の意味と姿が確認できそうに思えたのだ。徹底的に私であることこそ、この時代に置いては、自分の哲学を確立できる道ではないか。社会に対して理解を求めるということが、芸術には本質として必要なのだが、この社会を乗り越えるためには、この社会の枠というものに影響されてはならないようだ。枠という意味は、社会状況という意味。すべてが商品的な価値の中に織り込んでしまう、資本主義の徹底化の中で、社会性のない作品とか。商品的価値がない作品こそ、本質に迫る芸術であり得るという逆説。社会を見渡して作品を作るのでなく、自分の内側を深く見ることで作品を作る内行する意味。これが私絵画であり、むしろ次の時代を切り開く可能性さえ、持ちうるのではないのか。自分の中の無限を探る以外、制作というものはないような気がしてきている。