土下座と日本文化
最近土下座が話題になっている。どうも人気テレビドラマがあってその波及のようだ。そのドラマは見たことがないので、良くわからないところもあるのだが。企業が問題を起こし、責任者が被害者というか、世間に向かって土下座をするという場面はニュースで見たことがある。私の目には、土下座をすることで反省を示しているというより、反省をしていないので、土下座でごまかそうとしている印象があった。ともかく嫌なものを見たという感じだ。最初は不思議な光景だと思ったのだが、謝罪の一形態として、徐々に浸透した感がある。土下座は江戸時代の参勤交代の行列に対する、沿道の庶民の姿勢が時代劇を通して印象付けられた。下に―下にーと先登の奴さんが先触れの発声をし、それにこたえて道路際に座り込み頭を下げる庶民。身分制度の象徴的姿である。私自身の土下座体験と言えば、お寺での5体投地である。仏教に対してすべてをゆだねるという姿勢。この姿勢は謝罪の場合も行われると聞いたことがあった。
古くは邪馬台国でも行われていたらしいから、本来、日本人にしみついた風習のようなものだ。その意味では、仏教で行われる5体投地とは意味が違うようだ。日本独特に発生したものと考えていいものと思われる。一般には、挨拶の時に互いがおこなう儀礼だったのだろう。地面や床に座って暮らしていた日本人が、挨拶をする場合、訪ねてきた人間がその家の主に対して、座って挨拶をする。主もそれに応じて挨拶をする。それが土下座の最初の姿のような気がする。挨拶であって、謝罪の意味は後から加えられたものと考えることが自然だ。むしろ謝罪の意味は、仏教の影響が在る後の時代に始まるような気がする。座って互いに丁寧に挨拶をするということが、日本文化としての土下座の起源ではないか。これは良い姿である。頭を下げる。という言葉に謝罪の意味がある位だから、挨拶と謝罪が連なっているという意味がある。それは敵意がない、無防備の姿勢ということなのだろう。
土下座を供与するということは、相手の人格を蔑み、一段低く見ることで、鬱憤を晴らすということだ。こういう悪習は即刻辞めなければならない。東電などもすぐ頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。もちろんこちらは謝罪など要求もしない。賠償と、原因たる原発の廃止を要求した。しかし行動自体は、全く慇懃無礼で何の謝罪とは裏腹で、行動がない。一度小田原に東電は来て説明会をしてくれた。その時確かに謝罪の言葉は述べたが、その後は、会うことも、賠償も進めようとすらしない。もし謝罪の言葉が本心から出たことなら、会って話し合いたいという被害者に対して会いたくないはずがないだろう。個人的には責任を感じていないのか、嫌な思いはしたくないという辺りが、社員の本心である。土下座はそういうすべてを含んだごまかそうという演技である。お金の為、生活の為なら、土下座も厭わないという表れではないか。
土下座の背景にあるものは、封建時代の身分制度に当たる、金権支配という身分制度である。会社はお金で社員を支配している。社員である間は、個人の尊厳を捨てて給与に従う。嫌なら止めるしかない。武家を止めれば浪人である。上場企業を、上級公務員を止めれば、普通の人であるという不安。身分で生きていて、個人の力で生きている安心のない、金権社会。同時にこの社会は過ちを許さない社会でもある。間違えはどこにもある。間違えを二度と起こさない改善が必要。JR北海道のように人員、経費を削減せざる得ないとし、その結果事故が起こるとすれば、廃止をする他ない。二度と事故がないことが重要なことで、謝罪の問題ではすまない。その経費削減の責任を謝罪でごまかしてしまおうという、様子がうかがえる。報道の側は、謝罪に注目してしまい。原因究明と改善に注意を喚起しない。本来日本人の奥ゆかしく、へりくだる丁寧な気持を表していた、座っての挨拶が、このように誤用され、悪印象にしてしまったことは、実に情けない。