尊敬されたいという厄介
尊敬されたいと考えて、行動しているのだろうと言われたことがある。その時は意外な感じがしてびっくりしたのだが、よく考えてみればそういうことかもわからないと思う。名誉欲とかはあまりない方だと思う。社会で認められたいというのは、ほとんどない。絵で世間的に評価をされたいとは全く思わない。しかし、自分という存在を尊重をしてもらいたいとは思っている。この尊重してほしいと、尊敬されたいとはかなり近いものだ。自分らしい自分を認めてもらいたいと考えている。自分らしい自分というものは、表現しない限り人にはわからない。そこで、絵を描いたり、ブログを書いたりしているということなのではないか。絵を先日も頼まれて描いて、画廊に持っていったのだが、自分でも驚くほど見せるのが恥ずかしかった。自分の描く絵を人に見せるのは、幼稚園生の時から恥ずかしかった。先生が良く描けてますね。などというものなら、真っ黒に塗りつぶした。
絵は自分にとっていつも恥ずかしいものだ。自分の本音が表れているからだと思う。そこに、自分が尊敬されたいというような、気持ちが出ているからだと思う。そういう良く見られたいというようなことを、露骨に見られるのが恥ずかしいということだろう。評価されたいという気持ちが、あからさまになることが嫌だとすれば、否定はしているが、尊敬されたいという気持ちが、自分の底にあるということなのだろう。その絵を人に見てほしいというのだから、馬鹿らしいような2重の恥ずかしさが湧く。ブログでは書き留めて置くということを重視している。書いておけば役立つことがある。絵を描く心境でも、田んぼの台風に対する結果でも、書いて置くと忘れないですむ。私の場合すぐ過去のことを忘れている。忘れているだけならいいのだが、違ったことを思いこんでいる。そこで、山北に越した時から、毎日記録を残した。開墾をして、食糧の自給が可能かを実験していたので、実験記録が必要だった。だから記録を残すようになってずいぶんの時がたつ。この記録は自給生活にはとても役立っている。
同時に絵の記録もしてきた。どこでどういう季節にどういう状況で絵を描いたかである。良い絵がかけた時は、どういうときであったのか。描く前にコーヒーを飲んだとか。夕方、急に晴れて来たとか。○○旅館の桔梗の間が、富士山が描けるとか。これは、春日部先生のまねである。春日部先生は、今度長崎に描きに行くと話すと、何というホテルの何号室がいいよ。などと手帳を見ながら教えてくれた。そういう実際上の意味が強いのだが、じゃあ―それを公表し内でもいいだろうということがある。ブログを始めた時に、実に整理がついていいものだと感じた。田んぼの昨年の記録と言っても、すぐ出てくる。それを公表しないタイプがあるのかどうかは知らないが、公表しないタイプがあるとしても、それでは今書いているものとは違うと思う。実際に、昔書いていた記録ノートでは、よけいなことはほとんど書いてない。ただただ、必要事項のみである。今の形式に落ち着いたのも、ブログを始めてしばらくたってからだ。
ブログは人に読まれるという意識が反映したからだろう。ブログを通して尊敬されたい気が発散しているともいえないことはない。絵も当然そうで、人に見られるという意識はある。自己表現であり、主張であることがかなりの重さであること確かだ。ということは、やはり尊重されたいという自意識なのだろう。この自意識の扱いはなかなか厄介なものだ。人目に押されて、自分を歪めてしまう可能性がある。ありのままの絵が描ければと思う。ありのまま文章が書ければと思う。ありのままにまで到達できないから、いや、ありのままと、自己の望む自己とに乖離があるから、背伸びをしてしまっている意識がある。そのために外部からの見方が気になるということなのだろう。自己の望む自己に向かって努力することと、そう見せるということは、似ているようでかなり違う。尊敬されたいはかなり厄介で、重要である。