風評とか風土とか

   

風下、風上、風光、風月、風花、風音、風祭、風評、風標、風神、風の便り、風待ち、風向き、風俗、風合い、風韻、風雲、風化、風雅、風紀、風狂、風景、風采、風刺、風習、風情、風神、風塵、風水、風雪、風情、風前、風霜、風大、風体、風天、風土、風伝、風靡、風売、風物、風聞、風貌、風味、風来、風露、風呂。風の付く字を並べてみた。何とも面白い風という字だ。

「風」 字義:かぜ
    解字:形声。意符の鳥(後に虫に変わった)と、音符の凡(おおきい意)とから成る。大きい鳥鳳凰の意。借りて、「さぜ」の意に用いる。風はもと鳥型の神であったが、のち竜形の神とする観念が起こって、風の字が作られたのであろう。風はこの神鳥の羽ばたきによっておこるものと考えられていたのであろうか。

風という字は単独で考えてみても、とても面白いものだが、他の字と付けてもより面白くなる。風祭は小田原の箱根の入り口にある地名である。本来は210日の頃、大風を治めようという神事である。稲が実り、日々重くなってゆき、首を垂れる。この収穫の一歩手前は、祈るような思いで田んぼを見守る。ここまで来たのだから、あと一歩である。風よ来ないでくれ。田んぼをやる誰しも祈る思いだ。おわら風の盆が有名になったが、あれも風祭の一つである。風祭は全国にある。開かれる時期は様々なようだが、その起源は農作物を風から守ってほしいという祈りだ。今回の18号台風はかろうじて、予測コースより北を通り、小田原を迂回した。迂回はしたが、稲の倒れた田んぼもかなりある。欠ノ上田んぼも倒れた。いろいろ理由は考えられるが、今年の春先の気候は倒れやすい稲を作った。良く出来ているからこそ風で倒れる。

このにくたらしい風のやつ。風の又三郎のやつのちょっとした遊び心が、百姓の一年の苦労を無にしてくれる。宮沢賢治は、冷害の辛さを、子供を人買いに売らなければならないような悲しみを、風の気まぐれに紛らわすしかなかった。風を鳳凰の羽ばたきから起こるとした、中国の故事。口から吐くという説より、羽ばたきの方が感じが出ている。鳥は気ままで人間の及ばないものだ。行動も意外性に満ちている。季節によって居なくなり、現われる。神出鬼没であり、風のようだ。風というとらえどころのないものを、鳳凰の羽ばたき、に見たというのは大げさではあるが、すごい。と同時に風土という言葉はどうも日本の感触とは違う。風土は中国のような、ゴビ砂漠から、黄色い風が吹き寄せる国で生まれた言葉だ。中国古代では風土記というものが各地で編纂される。日本でもそれに倣い、風土という慣れない言葉を日本にあてこんだ。私には日本の言葉とは思えない。

瑞穂の国日本なら水土だ。中国では風は、季節的な気候の周期がある。日本でいえば、梅雨の用にある季節を代表すると言えば雨である。水の増減である。この水の増減を管理するということが、政治である。その水土管理の総括が天皇であると思われる。水というものはもう一方からいえば、海である。日本人が海と密接であるということが言える。海から来たものであり、海に帰ってゆくという感じ方。今回、「海と空との原の上」という絵を描いた。つまり、人間が生きる場所である。この海は山でもいい。風景画というものはそういうことではないかと思ったのだ。人間が生きるところを描くのものが、風景画だと思った。雲を描くとしてもこの雲の下に人の暮らしがある。そういうことを描きたいと考えた。「海と空との原の上」上田敏の詩の一節である。

風の付く言葉は実に多彩である。風天になって又旅に出るというのが、寅さんの喜びであり、悲しみである。そしてあこがれ。水土に張り付いて暮らす、百姓の豊潤な暮らし。安堵感。そして土地から離れられない閉塞感。もちろんそれは百姓だけでなく、人間すべてのことだろう。それら人間の暮らしをひっくるめて描くのが、絵ではないだろうか。と最近当たり前のようなことを、思うようになった。老化なのかもしれないし、諦めなのかもしれない。そう思うと、分ることも出てきた。少なくとも、絵はわかりやすくなった。人間の暮らしの当たり前の、すごさ。幸せな家庭は軒先から火を吹いているという、八木重吉の詩の意味。普通に山を描き、普通に海を描き、空を描く、そして風を描く。だから風景というのだろう。

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