絵に専念する家

   


写真の左にあるのが今この文章を書いているパソコンである。
食卓は自分でこさえたものだ。山北に居る頃、東電の架線管理の人が切り倒したケヤキを、板にしたもの。作って20年は過ぎた。甕は梅酒が仕込んである。立てかけてある大きな絵が150号。

今の暮らしは、アトリエに暮らしている状態である。つまり、明るいうちはご飯を食べても、パソコンの前に居ても、絵を描いているような具合である。常住坐臥絵と向かい合っている暮らせるようにした。以前は、アトリエには絵を描くとき出掛けてゆくという状態であった。改めて絵を描くというようにしていた。このように変えたのは、64歳の誕生日を契機にである。農の会の集荷場に行くのも止めた。卵を販売するということは続けているが、ご近所の範囲にしようと考えている。農作業自体も絵を描く範囲にしている。今までは、農作業の空いた時間に絵を描くという生活であったが、いまは、絵を描く合間に農作業をするという感じに変えた。だから、農作業時間の記録も止めてしまった。毎日記録していると、絵を描くという意識の邪魔になるからである。もうそういうことでいいのかと考えている。窓は南向きで明るい。この外光で描いている。つまり暗い時には描けないし、描かない。だんだん、太陽光と同じ明りをつけようかなどと考えてきている。

出来る限りで、絵を描く万全の態勢に入った。態勢が整ったからと言って、絵が描ける訳でもないのだが、やれる限りをやってみようと考えている。まだそう変えて、1ヶ月もたたないのだが、何か、絵を描くということの質が変わってきた気がしている。人間気持ちだけで変わることは少ない。環境を変えるということも重要だと考えて実行した。


自分の絵の展示室である。真中にあるテーブルと周辺の台は自分で作ったもの。松と桑の一枚板で、2間ある大きな板で作ってある。テーブルはやはりケヤキ。
籐のイスは満仲さんという忍野に住んでいる人が作ってくれたものだ。
中央の大きな絵が150号。大きな絵を描いたのはこの絵が最後。


ここは人の作品の展示室である。30ほどの水彩画等が置いてある。
水彩画と言っても様々なものがあることがわかる。色々の人の作品を見ることで自分の絵が見えてくるということがある。すべて自分が勉強になるだろうと思ったものが並べてある。
いつでも興味ある絵が見れるということはいい。

いつも絵と接している。しかし絵を描くということはなかなかできない。一日中描こうして眺めているだけで終わる日もある。農作業と較べれば、ずいぶん無駄なような気がしてしまうのだが、分らないまま描いたところで、どうにもならないので眺めている。ところがある瞬間、こういうことだったのかと、気付いてどんどん絵が進んでいる気がする、ことがある。そういう一気に作業が進む日を待っている。外に描きに行くこともあるのだが、外で描いて完成という気がしなくなった。もう一度見に行くのだが、それでわかる場合も少ない。家に戻り全く違った絵になったりする。あれこれわからないことはあるのだが、前より絵を描くということに近づいてきた気はする。それは一枚の絵に時間がかかることが多くなったら、絵に盛り込むことが減ってきて、つまりずいぶん削るようになって、自分にはやるべきことが分りやすくなった。

 - 水彩画