海岸での襲撃事件
小田原でも、海岸で暮らしている人に対して、襲撃事件がまた起きてしまった。8月に投石の事件と、花火の投げ込みの事件があった。昨日市役所の関係部署、福祉、人権、教育の関係部署の方と話し合いを持っていただくことが出来た。襲撃事件は昨年は6月にあり、今年は、夏休みにあった。昨年は海岸付近の学校との話合いも行い、学校が適切な教育を行っていただけた。その結果もあったのか心配された夏休みの問題行動はなかった。小田原の学校では、様々な深刻な事件が起こり、テレビでも何度も報道され、警察が介入するような荒れた状況がみられる。お隣の湯河原ではいじめを原因とする自殺も起きてしまった。小田原の教育委員会では、こうした状況を踏まえ、夏休みに入る前、「豊かな学校生活に」という文章を取りまとめ生徒に配布した。その文章は良くできた人権の問題を考える上で重要な考え方が示されている。しかし、良い文章ではあるのだが、生徒にこれを配っただけで何かになるとは考えにくい内容である。この文章を読んだだけで、理解出来る子供たちに問題行動はないだろう。
重要なことは、この文章を配り、生徒と教師が共に語り合いが行われるかである。出来れば、弱い者の人権について、具体的な事例に基づき話し合うことではないだろうか。今回の8月にあったとされる事件では、投石をされた場面に、たまたま警察官が居合わせたのだそうだ。それで、今、あの子供に投石をされたと訴えたそうだ。何とその警官は、お前がこんなところに暮らしているのが悪い。と言い捨てて、その投石をした子供を捕まえようともしなかったというのだ。これは2重の恐怖である。いつ襲われるかという不安で、恐怖心の真っただ中にいる。その暴力事件の被害者に対して、警官がさらに脅しをかけているのだ。路上生活者をどういう目で社会がみているかを、投石した子供には、教えたことになる。何かのストレスを感じているから、弱い者に対していじめを行う。そのいじめの行動を、警官が追認したのだ。
この深刻な事態を小田原市役所の福祉課長にお伝えしたのだが。「あんたたちが、警察のホームページから抗議をしたらいい。」こういう見解だった。私達パトロールの者が、警察に対応するのは一つの方法である。実際にやろうと思う。しかし、行政の関係機関は過去にも、警察に依頼して排除をした過去がある。行政には行政の役割がある。今回の事件を人権侵害と考えるのなら、それぞれの立場で自分の出来ることを考えてみるしかない。少なくともこの事件に対して、ともに対応しようという姿勢が感じらない。何を場違いなところに言いに来るのだという態度である。自分を部外者に置く姿勢が一番良くない。その他の方は、親身に自分のことととらえ考え、共に考えてくれた。福祉課長がこれが排除の論理の始まりであることに、気付いてほしい。
現代社会の問題としては、能力主義が進み格差的になればなるほど、弱い人が追い込まれるつらい社会になる。機会均等。努力しないのだから、能力差別されても仕方がない。という社会の空気が強まっている。路上生活者の問題は、確かに解決などない。少なくとも排除する側には立たないということ。アパートに入り、何とか生活再建を始めたのだが、また上手く行かなくなっている人がいる。仕事をお願いした。生活保護を受けるということで、却って暮らしが崩れてしまった感じもする。その人には、耐え難いような不幸なことが繰り返しあった。現状では自立して暮らすことなどとてもできない。周りに出来ることなど本当に少ない。ただ、時に顔を合わせて話をする程度のことが私に出来ることだ。それが何かになるとも思えないが、パトロールの人たちと知り合ってわかったのは、本当に聞いて上げる事が出来るかどうかが、とても重要だということ。