いのちの満足

   

くだかけ生活舎の和田重良さんから、「いのちの満足」という本が送られてきた。高杉という山の中に暮らして30年目ということで、出されたものだそうだ。と言って山暮らしが書かれているわけではない。30年前には、まだ重正さんというお父さんがいて、一緒に暮らし始めたということだろう。今は、息子さんと一緒にくらしているということだ。重正さんはさらにそのお父さんの八重造さんという方と暮らしたようだ。その頃にすでに、「一誠寮」というものがあったらしいから、親子4代にわたって、寄宿寮のような、教育組織をやってきたことになる。こういう何か思想運動のような、塾というような活動には、私にはちょっと避けたいという気分がある。しかし、和田重良さんは平和運動にも参加されるので、この点で共感している。重良さんから、時々送られてくる文章にはさすがというような実にうまいことが書かれている。

上手いといえば語弊があるが、他にもっと適切な言葉が捜しにくい。いいことというか、なるほどということが書いてある。とても鍛えられた言葉だ。読めばどこの部分も、そうだよなー、うまく言葉にするなあーと思ってしまう。まあ、たとえ話が上手だ。上手というのは怪しいということでもあるのだが、重良さんはお会いすると、実に言葉どうりの率直で、実直な方だ。必ず、なにかしらいただけるものがある方だ。私などは、批判ばかりしていて、根性が曲がっているから、時々お会いして気付かなければいけない方なのだろう。そういう方だから、やはりお会いするのは少し勇気がいる。偉そうにしないし、当たり前にしてくれるのだから、恐れることはないのだが、やはり立派な人に会うのは少し気が引ける。その点本はいい。気が向いたときに読めばいい。読めばどこかは納得がいく。教えていただける。

こういう内容を寓話として表現できないものだろうか。「あそぶ心地よさ」というのが第一章にある。思い出すのは、中学校の入学試験の面接で、と言っても曹洞宗の中学校であるが。「何が好きですか。」こういう質問をされた。本当のことを言わなければならないと思い、グーと考えて、遊ぶことです。と答えた。面接をされていた方は、びっくりしたようだったが、正直である方が大事だと思ったので答えた。次の章には、「雑巾がけのここちよさ」という、一灯園のような言葉もあるから、この遊ぶは油断ならない遊ぶにちがいない。そういう寓話を作れないかと思う。三年寝太郎である。寝ていて良かったというような寓話の方が重良さんの言葉は生かされるような気がする。そういえば、茂吉という俳号のようなものを持たれていて、時々句のようなものを書かれる。文学者でもあるつもりのようだ。寓話が向いているような気がしてならない。上手い話良い話が、面白い物語のお話として書かれていた方が、重良さんらしいと思うのだが、余計なことだろう。

三〇年間山の中で暮らしている人の、暮らしというものに興味がある。円空はおなかが減ると、掘り上げた仏像を川に投げ込んだそうだ。そうすると流れ着いたふもとの村に住む村のものが、やれやれ、和尚はおなかが減ったらしいと、食糧を持って出かけた。このやり取りはとてもいい。寓話だ。誰が拾うかわからない川に投げ入れられる仏様。流れて海に出てしまってもそれはそれでよい。拾い上げた村の者が、食糧を持って出かけるのもなかなか面白い。人間のやることはほとんど、意味がないという話。山の中で30年無意味に、仏像でも彫って暮らせれば、すごい。無意味で平気ということはすごいことだし、生きる目的なような気もする。重良さんが、山から川に投げ込んだ仏さんが、「いのちの満足」であるということは確かだろう。仏像を見つけれるかは偶然である。食料を担いで、山まで行くかは村人の判断である。

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