海外移住

   

あちこち移動して暮らしてきた。数えてみたら9回である。山北に住んだ13年と小田原に来て13年が同じになって、いちばん長く暮らした場所になった。どこかに移り住むのは何でもないのだが、海外に住もうとは考えていない。ところが原発事故以来、海外で生活できる力のある人が、日本を離れて出てゆくということがある。原発事故が怖いということもあるが、むしろ事故の日本の政府の対応に希望が持てなくなった人が多いいという。加えて、尖閣などの領土問題での隣国との軋轢の深刻化。軍事衝突の可能性。その上、憲法を改定し軍隊を持ち、徴兵制まで行く可能性が高くなってきた。それを阻止する手段が見当たらない無い。そして、日本を離れようということになるようだ。気持ちとしてはわからないでもない。というような話を魚住氏が書かれていた。同じようなことが身の回りでもある。移民とは違う、転職に近い海外移住。

私自身のことはフランスに住んだ経験で、海外で暮らすという、所属意識を持てない疎外感には耐えられない人間という自覚がある。自分が日本人であり、日本に暮らすしかないということは、一体どのようなことなのか考え込む。ノーベル賞を取るような優秀な人が、海外の方が自分の研究が深められる。自分の力を発揮できる。ということはあるだろう。普通の人間場合は出身国がやりやすいはずだ。昔の移民のように、その国の人になろうというのとは違う。絵を描くなどという場合どこででもやれるようだが、私には日本以外で描く気がしない。日本どころか、だんだんに住んでいる舟原あたりしか描く気がしなくなっている。遠くても、せいぜい伊豆の海くらいだ。だんだん狭くなっている。先日沖縄に行った時に、絵を描きたいというような気持ちは、全く起きなかった。海外に出掛けて行って風景を描くというような気持ちは、想像もできない。モランディーが静物を描くか、風景を描くとしても、窓から見た風景だったということが、よくわかる。

自分の子供が徴兵されて軍隊に入れられるぐらいなら、日本に居たくないという日本人はかなりいるはずだ。今、そういう国になりかかっているという自覚が、日本人全体にあるのだろうか。尖閣でも、竹島でも、意図を持って問題化しているとしか思えない。石原慎太郎氏のように、憲法改定どころか核武装も辞さないという人間が、戦略的に動いている。安倍氏もその仲間だろう。その戦略通りに、押すところを押せば泣き出すというような具合に、日本の社会は変化を始めている。まずは、経済である。今の政府のやり方は、投資ファンドに国がなったようだ。経済的成功というものが、すべてに優先する。その経済のためには、軍隊が必要である。権益を守るためには、軍隊がなければならない。これが憲法改定の方向なのではないか。日本国を国際競争に勝てる国にしようということだろう。実質的生産には目が向かないまま、小手先で世界1の国になろうというのは浅はかな希望である。

暮らしというものは個人のものである。国というものとは別でありたいが、そうもいかない。国家と経済は別の生命を持って動くはずだ。ところが、国家主義という尻尾はあるから、自分個人の経済と国の経済の行く先がくっついている。企業というものに個人が所属すると、今度は企業が国のようなもので、企業が上手くゆかなければ始まらない意識になる。この発想の結果、国家資本主義の登場になる。中国やロシアはそうだろう。このことは重要なので改めて考えたい。その意味でも韓国は日本の先進事例である。国家意識が強烈に強いが、特定の大企業を集中的に育成した。たぶん海外移住する人たちも多い。この国家意識というものはまた別なのだろう。自分の国家というものの像があり、その像とあまりに現在の日本政府がかけ離れてしまったということか。ベトナムやカンボジアから脱出した難民のようなものか。亡命政府でも出来るのだろうか。無政府主義になるのか。

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