全柔連の責任の取り方

   

全柔連は監督の暴力行為に対して、会長ほか執行部の辞任をしないことを決めた。組織が機能していなことを感じさせる。これでJOCが交付金の停止程度で認めるとしても、IOCが許さないだろう。園田監督の暴力行為がだんだん明るみに出てきているが、尋常なレベルではない。これを握りつぶしてしまおうという感覚では、世界の目が許すことはない。これはスポーツだけではなく、日本の組織のあり方すべてが封建的で、民主的運営がないとみられることだ。外部から人材を招くことなど、提言の具体化については6月の理事会までに道筋をつけるとした。あまりに遅い。どうも、相撲や柔道などの伝統的な武道の世界がこんなことでこじれてゆくことは残念で仕方がない。素早く、潔く責任を取るという姿を見せられないものか。未練は、武道家として恥ずかしいことのはずだ。日本の組織の悪弊を痛感する。徹底した民主的な運営である。

日本では芸術の世界でも、さまざまな団体が存在する。これは特異な状況である。絵の世界のことは少し知っているが、大きな団体になればなるほど、前近代的な組織である。絵の団体であるにもかかわらず、絵の話が出来ないところが多い。会長の今回の絵はマンネリだ。などという発言は禁句である。ここには、日本的な師弟関係の意識があると思われる。理屈抜きで師を尊敬しなければ、学ぶことができないという考え方である。それは大切なことではある。同時に、一人の芸術家としては、志がある以上絵に対しては、上下関係もないという意識も大切となる。日本の社会では、このあたりが上手く使い分けられるかどうかが、人間の評価になる。「私を幾つだと思っているのか。」こういうことを言われたことが何度かある。身分をわきまえろというということだろう。正邪に対して、若年の者は黙れというようなことは、悪い社会を作る。これが女性は黙っていろということにもなる。これが変えられなければ、日本はどんどんダメになる。

正しいからと言って、主張すればいいというものでもないこともわかる。正義、正論を振りかざして、背景や歴史を顧みず、云い募るのも良い結果を生まないことも確かだ。気付かないことや、奥深く横たわるものがあるかもしれない、と想像を働かす必要はある。しかし、女子柔道の選手があえて、発言したことは、社会が支えなければならないことだ。これだけのことが起きていることが、明らかになったにもかかわらず、責任もとろうとしない執行部なのだ。まだ、暴力的指導なしに選手が強くなるはずがない、こう信じている可能性がある。ここまで硬直し、状況把握の能力がないのでは、どんな方法をとろうとも、覆す以外にない。いくつかの団体にかかわってきた。決めていることは、役員を長くやらないということである。水彩人もそうした。農の会もそうした。生ごみクラブもそうした。変わることで権威化することを避けたいからである。代表や会長が変わらないような組織からは、遠ざかるようにしている。悪い気が充満して、空気が良くないからである。

日本人の一番悪い姿が組織の作り方に現れる。たぶん企業もそうなのだと思う。経団連の会長の発言など、時代認識がないひどい場合が多い。それでも内部から批判が出てこない。政治家を取り巻く世界もまさにそうで、世襲が多くなるのもそのあたりからきているのだろう。それでうまくやってきたということがある。つまりそうした成功体験が良くない。組織が形骸化して、日本がダメになるということになり始めているのだろう。独裁者の方が上手くゆくこともある。しかし、長続きするものではない。どうやって引き継いでゆくかを常に考えてゆくことが大切ではないか。それには徹底した民主主義である。まずはルールの確立。そうすれば柔道界でも有能な女性が登場する。女性が中心に居ないような組織が、良くなるわけがない。日本が遅れ始めている大きな原因は、女性の有能さを理解できないところにある。

 - Peace Cafe