省略の美

   

日本の芸術は省略と云うものが大きな役割を為している。作品にはその入り口だけが示され、後は受け手が世界を広げて味わう。文化後進国の絵画が、写真のような絵になるのは、受け手のレベルが低いからである。写真的な見たままの世界以外を想像する基盤がないからである。見た画面からその背景にあるものを感じ取るのは文化の問題である。日本の伝統音楽においても、音と音の間の余韻を味わう傾向である。文学においても、俳句というような短い形式の詩をつくりだす。当然そこには世界観の入り口が示されるだけである。分かる者同士での世界である。絵画においても、丸い輪を黒い一色の墨で描いて、自分の世界観を暗示しようと試みる。こうした芸術が生まれた前提には、極めて高い文化レベルの人間で、グループが構成されていたからである。特に江戸時代の文化である。絵画を見れば、江戸時代から離れるに従い、衰退が著しいことが分かる。衰退どころか日本の芸術文化は消え去ったような気さえする。

相手を思いやる心。これが無ければ成立しない日本文化。「連や講」と言う芸術グループが江戸時代には存在した。特にこの文化グループが相手の言わんとする所くみ取る能力を高めることに作用した。俳諧連歌のような、たがいに受けて発展させて、共同で一つの作品を作り出す、芸術グループである。こんな文化を作り上げることが出来た事は、日本人の誇りである。まさに思いやる水土文化に根差す。こうしたグループ的文化レベルの高い背景があり、思い切った省略の芸術が生まれた。しかし、明治期になり、日本人が西洋文明に圧倒されて、即物的な物質文明に支配される。すべてを説明的に正確に表現しない限り理解し合えないという事になる。ロシアには、イコンと言う素晴らしい芸術があったにもかかわらず、レーピンが登場するようなものである。現代中国でも写真的なリアルさが評価されている。何故あれほど高い芸術レベルの国が、このような幼稚なものに侵されるか、現代文明を反省しなければならない。

日本の芸術が復活するためには、連や講を復活するしかない。失礼ながら世間はどうせ解らない人ばかりである。不毛の地に発信しても仕方がないだろう。思いやるこころを持った人間の仲間を見つけ、芸術文化を探る以外にないのではないか。良くない思想である自覚はある。しかし、そうも言っていられない文化状況である。現代の連が「水彩人」である。水彩画の研究会である。現在は、東京都美術館で展覧会を開催する団体として扱われるが、とことん水彩画を深めようと言う、研究の為に出来たグループである。互いを信頼し合い、徹底し絵について批評しあう。この仲間の中なら、一定のレベルの共通理解が存在しうるという組織である。この組織もそういう趣旨で始まったわけだが、どうしても、一般的な西洋絵画の常識的理解が紛れ込む。絵画が自己表現であり、他人には踏み込ませない、個人的問題であるという認識。悪い意味の個人主義芸術思想の克服である。

文化が失われているから、即物的な存在感に目を奪われることになる。描いても居ないものを暗示し、思いやる様な共通文化が無い世界。西欧的な油彩画の世界ならそれも許されることだろうが、日本人として水彩画を描く以上、互いを思いやるものでありたい。その為にも文化的レベルの高い集団を作り出す必要がある。この仲間なら分かり合えるという集団が無ければ、即物的な世界に押し切られてしまう。相手を思いやる心。言わぬが華。これは、世界にとっても必要なことである。相手の非を指摘する小賢しさが目立つ現代の社会状況。西欧文化の悪弊である。物質文明が精神文化を圧迫しているのだろう。日本が世界に貢献するためには、もう一度、省略の芸術に立ち返ることである。まず、分かり合える仲間を育てることではないか。その為には、共通の芸術活動を行う必要がある。水彩人はそうした仲間のつもりである。そういう仲間に育ててゆきたい。

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