女子柔道暴力指導問題

   

オリンピック選手まで暴力指導だった。何と言う情けない指導者であろうか。今回の女子柔道選手の勇気ある行動が次に繋がることを祈っている。オリンピック監督の暴力指導が明るみに出たが、スポーツの指導では暴力が常態化していると考えた方が良い。そして、口では反省を述べるが、腹の底では厳しい暴力指導なしには、強い選手など育てられないと考えている。国会議員のやわらちゃんは人格者園田コーチの暴力など信じがたいと言われていた。20年も周辺に居て見たことも聞いたこともないとびっくりしていた。発言を信じたいとは思う。園田監督が何かの事情で焦りを深めたということか。金メダルを取らなくてはならないという思い込み。東京オリンピック誘致などが、プレッシャーを掛けたという事もあるのか。日本と言うものにこだわるからこういうことになったのではないか。

暴力指導禁止で、日本の金メダルは無くなると深刻に受け止めている関係者も多いはずだ。だから全柔連は園田コーチを解雇出来なかったのだ。監督だけでなく、スポーツ関係者の80%が暴力指導は必要と考えているというアンケートがあると言う事だ。この点を、建前論ではなく、充分議論を尽くすべきだ。後進国や国家主義的な国、加えてスポーツと経済の結び付いた国が、ルール違反をしてまで強く成りたいと考える。結局は1番でなければいけないという考え方が原因である。「自分のためではなく、何かのための」スポーツだからではないだろうか。日本のため、学校の為、会社のため、地元のため。こうした背景があると暴力指導が起りやすい。もう一つには、選手自身の問題がある。暴力で強制されなければやり切れないという、人間の弱さである。だから、自ら暴力指導を望む、選手も多いいはずだ。朝眠くて起きることが出来ない。しかし、誰かが起こしてくれれば起きることが出来る。結局人間の心の弱さの問題がある。よし、自分の心を鍛えるために、一人で起きて見ようと頑張る。ここが重要だと私は考えた。

日本の文化の問題だと思う。苦行的人間修業とスポーツの関係。あるべき教育の姿が見つからない。価値観の見失われた社会。封建主義時代の価値観を引きずる暴力指導。上位の者が、下位のものを一方的に隷属させ指導する。勝つという事を絶対の目的にする。嘉納 治五郎氏ならどのように発言しただろうか。人間として対等であるという前提がない教育の社会。建前社会。昨年は、相撲界の暴力指導が問題になった。なにしろ殺してしまうまで痛めつける。人間の何かがおかしく成っている証拠である。スポーツ界だけの問題ではない。社会全体にこうした追い詰められた、苛立ちが広がっている。江戸時代の一番悪い側面を引きずっている。西欧文明の個人の尊重、人間主義は人類共通の大切な思想である。白人社会には腹の立つことも多いいが、いち早く、人間主義を確立した事は立派だ。暴力に頼る考え方は、克服しなければならないものなのだ。

世界から見たら、オリンピック選手の強化で暴力が行われていることになれば、オリンピックの参加自体が出来ないことになる。オリンピック誘致どころではない。この西欧社会とのギャップが、まだアジア全般に存在する。スポーツだけではない。学校教育の指導も同根である。人間は、強制力を持って社会化する。放任ではまともにならないという思い込みである。頑張れという事になると、建前は別にして強制によって訓練しなければ限界があると考える。人間と言うものを信じていないからだ。人間を引き出すためには、その人自身の精神が努力に向かわなくてはならない。その為には、指導者自らが共に努力するという姿勢だ。自身を磨くと言う精神を指導者が失う時、選手の上位に立つ。先を歩むものとして、技術を伝えることが大切なのだ。あくまで来るものは拒ばまず、去る者は追わずであろう。

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