軍国主義について
安倍慎三氏や石原慎太郎氏は、本質的には軍国主義者と考えた方がいいと思う。では軍国主義とは何か。「国家と社会において軍人や軍隊が特権的・優越的な地位を有し,戦争を肯定する立場から政治,経済,教育,文化など国民生活のあらゆる領域を軍事化しようとする思想ないし体制をいう。」(世界大百科事典)安倍慎三氏や石原慎太郎氏に対するふさわしい呼び名を考えると、右翼的とか、保守主義者、国家主義者、どうも違う気がする。どう呼べばいいのかと悩む。ナショナリストというのを一度考えたがどうも違う。結局、力の論理の人なのだ。弱いものは負けると思っている人間。その力を軍事力に期待している。抑止力としての軍備、平和のための軍備。こういう考えとは本質が違うと思う。民主主義国家の中で、軍国主義的方向をすすめようとしている人。今の所選挙対策としてごまかして民主政治をやっているのではないか。自由にやれれるなら、軍国日本を作りたい人たちではないか。
ヒットラーが登場した前夜の政治状況に近いものが日本にある。余りにふがいない政府の状況に、強いものを待っている。「茶色の朝」は近づいている。犬の模様ぐらい斑でも黒でもいいとは言い切れない。それを深刻に味わったのが、福島の原発事故だった。国を守るために、原発事故周辺の住民を切り捨ててしまった。そして、報道も歩調をそろえ情報統制を行う。パニックにならないためという理由で、周辺住民の命を危険にさらす。そしてそのことへの反省は現在もない。多くの日本人が海外から放射能汚染の広がりが伝えられて初めて、深刻な状況を知ることになる。権力の実像が白日に暴かれた時、日ごろの人道的発言がいかに建前であったのかを思い知った。全体の為に一部を犠牲にしても仕方がない。普通にそう言う怖ろしい事が行われた。そしてその傾向は、石原発言にみられるように、扇動的に国民全体に広がってきた。「尖閣に中国漁船が近づくなら、武力を持って追い返せばいい。」こういう考えは、風呂屋の政治談議、つまり、無責任な放言では良く聴く所になっている。ネットなどにも頻繁に現れる。
安倍氏の「総理大臣として、靖国神社に参拝出来なかったことは、痛恨の極みである。」発言。自分も英霊のように、国を守る総理大臣になりたいと考えている。それには軍事力が必要である。こう考えている。しかし一度、軍事力の蓋を開ければ、軍拡の競争に撒きこまれることになる。石原氏も橋下氏も核武装に言及している。シュミュレーション位と言いながら、原発のプルトニュームを抑止力と呼んでいる。アメリカとの関係強化と発言しながら、アメリカからの軍事的独立も言及している。安倍氏は教育改革を力説している。その中には、国家主義的な教育思想が含まれていると見なければならない。軍国主義は教育から始まる。方向としてみれば、憲法を改定して、国防軍を作るという先には、軍国主義的な日本が待っていると考えざるえない。日本人というのはそういう歯止めの弱い民族である。北朝鮮が、核ミサイルを保有したということは、もう軍事力では防ぎようがないと私は考える。
日本の役割は、競争の世界からはなれ、安定した自給的国家として自立する姿を、世界に示す事だと考える。文化の力で世界に位置する。江戸時代、循環型社会を作り出した。災害は大いいが、自然条件が豊かで、恵まれた国土を生かしきる、他所様に迷惑をかけない国。日本文化というものを深く掘り下げ、類を見ないレベルに高めた。それは稲作農業を背景にした、自然と融合した暮らしを通して、観察というものの意味を極めたと言える。日本鶏や金魚を通してそのことが分かる。できる限り自然を改変する事無く、暮らしを自然の中に溶け込むように、手入れの範囲で自然をコントロールする。循環型社会の知恵に満ちた、永続可能な社会を世界に示してゆく。この文化を持って世界にその位置を確立する。象徴たる天皇は、江戸時代のように京都に戻り、修学院離宮のような、農的な庭園理想郷を身をもって文化的に示す。