核廃棄物の処理法
高レベル放射性廃棄物についての日本学術会議の回答がある。内閣府原子力委員会委員長からの依頼に関する回答である。科学的知見として出されているが、誰にでも分かりやすい内容である。先日この回答が原子力委員会に出されたが、現状の宙に浮いたような原子力委員会では無理もないのだが、まともな受け答えさえ出来ない、まるで他人事のような情けない姿であった。平成9年に原子力員会の出した放射性廃棄物の処理計画がいまだ残っている。この文章は電気需要が増加しているから始まり、多岐にわたって安全性が述べられている。そして、地中処理をする地域の募集が行われた。しかし、政府の推進活動にもかかわらず、そんな地域は無くこの計画自体が挫折したままであった。そうした行き詰まりの結果、六ヶ所村の再処理工場が技術的な見込みのないまま、一次置き場として核廃棄物が運び込まれた。また海外に預けてある分もある。そして各原発には、一次置き場が恒久化された形で、燃料プールに限界まで置かれることに成っている。
地中ですら安定的保存が困難であるとされる、高レベル放射性廃棄物の処理法が見つからないまま、原発は1番安い発電方法であると、今だ政府は主張せざる得ない事態である。この馬鹿げた状況は早急に改善されなければならない。どのような事業であっても、その廃棄物の処理方法が見つからないようなものが、運転されることはあり得ない。政府だから無理強情に押し通して来た歪んだことである。まず行うべきは、原発の停止である。もうごみが出ないようにしない限り処理法も見つからない。六ヶ所村の再処理工場こそ、一番に止めなければならないことである。再処理の展望が開けないまま運営が続けられたのは、核廃棄物の処理法が無いために、論理上、再処理の可能性を残さざる得ないだけであった。今もその為に、莫大な無駄遣いが続いている。福島原発で事故を起こした今が、最後の原発廃止の機会と考えなければならない。
今後、原子力発電所を廃止したとしても、大量の核廃棄物をどうするか。科学的進歩が起こり、半減期を進める技術と言うような、途方もない方法が発見されない限り、負の遺産として未来の人類に残さざる得ないものである。にもかかわらず電力各社は原発の再稼働を、あらゆる角度から画策している。政府も相変わらず煮え切らない態度を続けている。その原因は、安い電力と言う、後始末を考えない愚かさに原因している。今さえよければいい。こういう刹那的な、いや追い込まれた企業の希望である。六ヶ所村再処理工場の継続宣言は原子力政策の矛盾の象徴である。規制員会の今後の対応を注視する必要がある。地元からは継続の希望がある。地元の継続希望に国の政策が動かされてはならない。地元の希望は、六ヶ所村の繁栄である。国の責任において、リサイクル工場の後の展望を示す必要がある。
日本に石油はほとんどない。そんなことを嘆いた所で意味が無い。日本はエネルギーは高く付かざる得ない国と言う自覚をするしかない。その不利条件のもとやって行くしかない。日本は地震国である。いつ次の津波に襲われるか分からない。巨大な台風も襲ってくる。集中豪雨も頻発する。そうした悪条件があるにしても、日本はそれにまさる素晴らしい自然環境の国である。悪条件だから出て行きたいと考える人や企業は、自由に出て行くことは許される。学問を十分にしたいと言う事で出て行く学者が、頭脳流出と言われた。それはそれで悪いことではない。この日本という条件の中で、普通に暮らして行ければいいはずである。原子力に期待したことは、止むえない選択だったと思う。しかし、福島の事故は警告のようなものだ。ここで気付いて止めろと言う事だ。