ナショナリスト
ナショナリストは国家主義者という風に考えればいいのか、愛国主義者の方がいいか。ナチュナリストとは音は似ている。国家と自然というものは、不可分なものであろうから、多分もともとは語源的には近いものであったのかもしれない。それが今の時代、自然主義者と国家主義者が対立的なものとなった事には、考え深いものがある。そんなことを思ったのは、竹島問題で東アジアに一斉に愛国主義者が増えたような気がしたからである。韓国では、独島は天然記念物らしい。天然記念物に色々領土を示す物を構築しすぎるものがあるのは考えものである、という批判も韓国内にもあるらしい。それで、ナチュラリストを連想した。そもそも、国家主義者をどう呼べばいいのか迷う所である。主義者が付くのも何か物々しいし、右翼とか呼ぶのも一派ひとからげでどうもなじめない。
国を愛するという意味は難しい。国とは何かというような概念の固定が必要になる。そこでナショナリストと呼ぶことにしたらどうか。と思いついた。片仮名表記はなじまない気もするが、松下電器も今やパナソニックになって、ナショナル電気は消えた。いや、消えたわけでもなくここでも微妙に使い分けられている。こういう言葉はいずれ難しいのだろう。愛国屋とか、愛国堂というような店名も結構ある。あるだろうが、やはり私は、赤尾敏氏の愛国党を思い出してしまう。だから今存在している国家主義的な人たちの事を、そう呼ぶと違う気がする。新しい日本主義者の登場。こうした日本主義者を増やす事が、安倍内閣が目指したような、国を愛する心の教育なのだろうか。もしそうだとすると、相手を思いやるというような、教育の目的とは、対立して来るような気がする。そもそも教育は国のものと言うより、個人の人間教育のはずだ。もし公教育が国家の為のものとなれば、型にはめる押し付けになりかねない。
「公」というもが欠落したのが、戦後のアメリカ型の民主主義の弱点である。日本人は列強に伍して帝国主義を目指し、敗北した。これも簡単にはそう言いきれない様々なことがある訳だが、ともかくこういう、反省と言うか、挫折感のものとに、戦後民主主義を浅薄なものと思いながらも、その有難さも認めた。一応の民主主義のもとに日本の再生を目指したのだろう。それが、資源のない日本が世界1に成るには、人間を努力して磨くしかない。こういう思いで頑張ったことに違いない。そこには戦前の稲作文化が育てた、共同、互助、自然とのかかわり方。類まれな観察力。こういうものが企業社会に生かされて、忽ちに世界の競争に追い付き追い越すことになる。ここでは、村社会からの延長として、企業村であり、原子力村のような、組織とも言えない、統一された上位理念のようなものを感じる。そして、村社会が無くなり、部落単位の稲作が無く成り。「公」的な意識も消えた。
東日本大震災で、日本人の絆と言う事が強調されたが、その根底に存在する、ナショナリストとしての日本人は希薄なものであったことが、結果に出ている。愛国教育と言うものが、実は敵を作る教育であるということは、韓国でも、中国でも、そして日本でも明らかなことだ。ナショナリストと思われる人のコメントは、もう大半が近隣諸国の悪口である。それは日本と言う国の良さを理性で理解するような知性は全く感じられない。ただ、上手く近隣諸国の悪口を言い募ることを、愛国だと思い込んでいる。敵がいなくては成り立たないような、愛国は間違っている。愛国であるなら、日本と言う国がどういう国であり。これからどこを目指せばいいのかを、主張するべきだ。日本人である本質は、稲作で培った日本人の資質である。稲作文化を忘れた日本人は日本人とは思えない。近隣諸国の悪口だけを言い募る、日本人を恥ずかしい人達だと思う。
昨日の自給作業:イノシシの柵作り2時間 累計時間:9時間