瞑想と座禅

   

瞑想と座禅は似て非なるものである。どちらの方が上とかいう事ではなく、それぞれの意味を理解して、かかわることが大切だと思う。私は最近瞑想の方を実践している。若いころ本気で座禅をした時期もあった。本気というのが、例えば悟るまで座り続けるというような、めちゃくちゃな乞食禅であった。瞑想と座禅の違いはどこにあるかと言えば、座禅は苦行である。肉体的な限界ギリギリのところに自らを置いての修行である。少なくとも若い私にはそういうものであった。今想像するに、本当のところはまた違う気はする。違う気はするが本当のところを知らないので、苦行という事だけが強く印象に残っている。苦行は苦行で意味があるのだろう。肉体の限界を越えようという辺りの真剣さの中に、受け取れるものがある。そう言うものを経た人はどこかが違う。スポーツでもオリンピックで活躍するような人は、人相がある。苦行を越えた人だけの、くっきりした人格というものがある。断るまでもないが私は越えた訳ではない。

瞑想は誤解を恐れず書けば健康法のようなものだ。瞑想を何故しているかと言えば、暑いからである。苦行とは相対するような、極楽をしようということである。暑いので、水風呂につかった。入った水が、16℃くらいのごく冷たい水であった。心臓が弱い方なので、半身浴である。しばらくするとフクロハギあたりの筋肉や手先などが、水の冷たさで痛くなった。それを通り越したらば、しびれてなにも感じなくなった。ふとその状態が浮遊感覚ってこういう感じなのか、という気がした。そこで少し筋道を立てて、水に浸かる半身浴を瞑想時間にしたら面白言うという気がした。ただ冷水に浸って居てもすぐ飽きるからである。瞑想は時間も、肉体も離れ、ただ漂うような気分で再生する心境ではなかろうか。多分、自分の精神が弱まっているのだと思う。人間には、弱い時も滅入ってしまう時もあるのだから、少しでも気分がほぐれれればそれでいいと思う。修行が出来るというのは、相当強い前向きな時のことだ。

具体的に言えば、と言ってもそれぞれのことなので決めつけられないが。水温は17度位がいい。そこに、へそまでつかる。低い椅子に座る位の姿勢が安定する。それなりに深い水の中に椅子というか段差があれば具合がいい。手は膝の辺りに上を向けて開いておく。この時、肘の付け根くらいまで腕も水に浸かる。座ったら呼吸を整えながら、数を数える。50くらいで足や手先が痛くなる。70くらいが痛さのピークである。これを越えると、徐々に冷たさに慣れて、麻痺してくる。100を越え、150くらいになると、足の存在が不確かになってくる。下半身が無くなり、水が身体の中あたりを流れているような気分になる。成るというかそういう妄想を抱く。300くらいまで数えたら、一サイクルが終わる。体が温まったらまた繰り返す。これを5,6回繰り返すと、頭の中がすっかり洗われたような気分になる。座禅などに比べたら気持ちが集中しやすく、頭に想念が湧くことも少ない。しかし、湧いたからと言って断ち切るのでなく、あくまで身体のあったはずの辺りに水が流れ込み、身体が水になってしまった様な感覚に一体化するようにする。

滝行というのは、多分こういうものなのだろうか。苦行に見えるだけで、実はとても快適な瞑想なのかもしれない。水が流れ落ちる音が聞こえたら、水道の蛇口からでもいいのだが、その音が頭の中から身体の中まで通り抜けていくように感ずる。暑い時期は特にいいのだが、夏これを始めると、冬でもやりたくなる。私はどこでやっているかと言えば、日帰り温泉である。大抵の温泉に水風呂があるので、ここの隅でやらしてもらう。混んでいる時は迷惑なので、避けた方がいいが。だいたいの場合、水ぶろまで混んでいるということは少ない。お風呂やサウナと交互に入ればいいのだ。随分騒がしい場所での、おかしな瞑想だと思われる向きもあろうが、これが雑踏の孤独というか、私には一人よりいい。ともかく気分の回復がある。頭の中を洗うような感じだ。意識し出したのは最近であるが、結構昔から続けていたことになる。

昨日の自給作業:大豆の草取り3時間 累計時間:3時間

 - 日帰り温泉