スポーツ基本法ができた
大震災以降、スポーツに心を晴らしたい、という日本人は多いのではないか。昨日の箱根駅伝の人出は、例年の倍位いはあったように思う。小田原の5区では東洋大柏原選手の力走を一目見ようと言うこともあるだろう。例年5区スタート地点から1キロの箱根板橋付近で見ている。風間豆腐店におからのバケツを置きに行きながら、応援をすると言うのが、例年の正月である。山北に居た頃から見ているのだから、20年以上になる。今年の人出はともかくすごかった。柏原選手は少し痩せたのか背が高くなったような感じがした。通過時の表情からもいかにも余裕があって、これは新記録を出すなと言う感じだった。家に帰ってテレビをつけると、自己の持つ区間新を破って箱根芦ノ湖ゴールに飛び込む所だった。なにしろ明大の区間2位の大江選手より3分も早いのだから、まさに山登りのエキスパートである。5分も差をつけたので、東洋大の総合優勝もだいぶ近付いただろう。
昨年には議員立法でスポーツ基本法と言うものが出来た。この趣旨を読むとなかなかいいものなのだが、競技スポーツと健康体操がどう違うのかが不明確な点が気になる。競技スポーツは大多数の国民にとって観戦するスポーツであり、一人ひとりが日日行う運動とは意味が違う。私が健康増進のためにやっているゆる体操と、ダルビッシュ選手が大リーグへ行く話とは、似て非なるものである。それが法律上ではまざっている。この法律は競技スポーツの強化や施設整備やオリンピック招致に、税金が使われる法的な裏付けになる。オリンピックで日本選手が金メダルを取ることは確かに喜びである。しかし、それをスポーツのくくりにしない方がいいと考える。スポーツが国威発揚のように進むのは健全な社会の構成の害になる。北朝鮮のサッカーの応援風景を考えて見れば、異様なことかが分かる。国を挙げて競技スポーツを推進することは避けた方がいい。
スポーツゲームにはゲームの側面がある。観衆として見るスポーツは、ローマのコロッセウムで行われたような、人間同士の殺し合いを見て、フラストレーションのはけ口にすると言う、堪らないものもある。格闘技というものは、ショウアップされているとしても、よりあくを強くし最後は殺し合いである。それはゲーム機の世界では殺し合いゲームが当たり前のようだ。競技スポーツを剣闘士のように、国が金メダルを競って奨励するようなものではないきがする。今年はオリンピックイヤーで、なでしこジャパンががっばってくれた方が嬉しいが、メダルが取れなくても何ら問題は無い。キム・ヨナ選手と浅田選手では良いライバルがいてくれたことが素晴らしいことで、勝つことが出来なかった浅田選手は残念だっただろうが、その後得ているものはさらに大きいはずである。極限の努力がどういうものであるかを教えてくれる。
スポーツの精神性を強調するのも、やり過ぎるとおかしなことになる。農業でも中には道路じゃない意味で「農道」、宗教の教義に農業を入れることもある。何でも精神修養にしたり、宗教にしたりするのはおかしなことである。大抵の場合、もったいをつけるのか、金儲けの為に尾ひれをつけようというアイデアである。柏原選手は私の苦しさは1時間そこそこの事だ。「福島の人たちの長い苦しみを思えば大したことではない。」最後にこういう事を語っていた。素晴らしい人間だ、この気持ちを育てた、柏原選手の走りを評価したい。福島の人たちだけでなく、私も大きな励ましを受けた。時々農作業に疲れるようになってきたけれど、柏原選手の走りと練習に比較すれば大したことは無い。素晴らしいスポーツ選手から受ける感銘は確かに大きい。しかし、国がスポーツ選手の活躍から活力を得る事を、法律の目的にするのでは少し違う。気をつけないといけない点である。