競争社会からの離脱
経済先進国が追い込まれているのは、競争する国家が急激に増えたことによる。中国の脅威とか、インドの躍進。韓国の企業の優秀さ。必ず、この競争はさらに激化する。日本やアメリカやヨーロッパが先進経済国と言うような地位を維持しようとしても、必ず平準化されることになる。今までの日本の経済は、どこかの国を出し抜いて維持されてきたものである。能力主義がどれほど先鋭化しても、人間の能力は各国そう変わるものでもない。日本だけが有利に展開できる訳がない。いま、TPPに加盟して一時をしのげたとしても、経済先進国の位置を維持は出来ない。韓国が日本との競争に勝利して、一時好転したとしても、永遠に有利と言うことはあり得ない。経済の自由競争と言うものは、資源の独占でもない限り、有利さの維持は難しい。
競争社会は、敗者のいる社会である。しかし、生きると言うことには敗者はいらない。一人の人間が幸せに暮らすことと、社会全体が幸せになるということが、切り離された社会。西欧的利己主義ではないか。自分だけが幸せになれると思う間違えがある。これは、個人主義と言うか、自己存在の意味を重視した、西欧社会の挫折にみえる。確かに、一人ひとりの人間が、個人が自立するというようなことは、近代社会の良さの一つとして、重視されてきた。しかし、個人はいるのだが、地域社会と言うものが失われた。個人主義と言うものが、幸せに暮らすということを崩してしまったようだ。全体が良くならなければ、一人も良くなれない社会。全体の幸せ度を上げる努力が、自分の幸せへの努力である社会。ボランティアと言う考え方に、違和感のある日本人は多いと思う。社会の為に働けることが、自分の充実である社会。これがアジア的な社会のはずであった。誰の為にでなく、自分のやりたいことをやって、社会の方角に適合している。これがアジア的理想像であった。
農業をやることは、放棄され荒れて行く畑を維持することである。地域の環境整備事業でありながら、自給の食糧生産である。どこにもボランティアと言われるような、性格はない。これが出来ることが幸せである。こうした一人のよりよく生きたいいう行為が、地域社会を支え合って形成する、経済の仕組みを見つけ出すこと。必要なことのようだ。農業に競争を持ち込み、敗者を作ると言うような経済の仕組みは、幸せな社会、幸福な社会から遠のくばかりである。割に合わないことを、喜んでやれる社会。最近、農業分野では日本の条件の中で、国際競争に勝利して居る素晴らしい能力の人が紹介される。「早くTPPに加盟して欲しい。」等言わせている。あくまで特殊な事例で、日本の農業全体の解答にはならない。食糧生産と言う意味では、一般的な解決策しか意味を持たない。他の商品のように、特許を取り技術を独占して競争することは、食糧にとってはあってはならないことだ。アメリカの農業商社はそうした事ばかり模索している。
江戸時代の封建制にはどうしようもない悪い側面が多々ある。しかし、人間が幸せに生きる知恵は無尽蔵にある。幸せな社会とは、鶏が飼える社会だ。現代社会では鶏は飼えない。社会がここまで劣化したということだ。臭いや鳴き声が迷惑と言うことになる。鶏が朝から鳴くことを、幸せな地域社会の象徴として、受け止めていた社会もあったのだ。肥い溜の匂いを田舎の香水だと言うような、冗談で済む社会がこの前まであった。全体が良くなる以外、一人が良くなることはできない運命共同体に生きていた。これを悪いものとして、前近代的なものとして否定したことは、社会の前進ではあった。が、そのまま復活するのではなく、他の為に働くことが、ボランティアではなく、自分の為である社会を見つけない限り、不幸な社会が続いてゆく。
昨日の自給作業:小松菜の播種、そら豆、サヤエンドウ、春キャベツの苗作り1時間 累計時間:1時間