説明会の意味

   

様々な事業で説明会と言うものが行われる。マンション建設のための説明会、ショッピングモールの説明会。埋め立て処分場の説明会。墓地の説明会と言うのもある。今回、玄海原発の説明会でやらせメールが浮かび上がった。メールだけではない、この説明会自体が、再開の為の通過儀礼のような、やらせのようなものだ。一応手順を踏んだという証拠づくり説明会。これは行政の得意なアセスメント手法も同じだ。一応意見は聞いたというだけのことである。過去何度も説明会と言うものに出たし、アセスメントに意見書も出した。説明会の開催そのものを阻止したこともある。説明させてしまえば終わりということもある。説明を聞かないで、反対というのも理屈に合わないのだが、説明会を開いたので、これで手順を踏みました。という結論が見えているので困る。反対運動などにかかわらなかった人に、説明会を開かせてはならない。と言うような意見は不思議に聞こえるだろう。説明会の形式化を避けるためには、分かり合うまで行うのが本来である。

民主主義は志だといった人がいる。志が低ければ形式民主主義に出来る。手順に成る。始まる前から結論ありきの事業が普通である。第2東名高速道路の建設の進め方で、このことを身に沁みた。20数年前この話が出た時、相当に研究し、全く不要な道路であると考え反対した。20年経ってそのことが間違って居なかったと確信は深まっている。その時この道路を作る必要があると考えたのは、どんな機関で、どんな手順を踏んだのかを説明会で何度も聞いたが、明確な回答がなかった。名前を言うとどんなことをするか分からないというのだ。しかし、日本の進路の判断をした人の名前が分からないのでは、どうにもならない。その哲学が知りたかったのだ。まだ当時は拝金主義によるとまで考えていなかった。日本の進路の考え方に違いがあるのだと思っていた。だから話せばわかると思っていた。しかし、原子力発電所の進め方を見て、つくづく、汚い拝金主義に染まっているに過ぎないことが分かった。経団連会長米倉氏の発言を見ればそれ以外感じられない。

金儲けをしたいから、嘘で固めて安全神話を作ってきた。あのテレビ説明会の不自然さ。佐賀県知事は良い説明会であった。十分の説明がされたとした。何たる形式主義者か。玄海町の町長は地元土建業で、九電から仕事をもらう立場。こういう人が町長に選ばれ、知事に選ばれる選挙結果。こうやってみんなで安全の神話を作り上げたとしても、原発の困難な問題は変わらない。今も、原発が無ければ停電してしまう。日本の産業は競争に負ける。すべて神話への道である。議論なしにそういう結論がある。九電が作った6つの想定意見通りである。荒唐無稽をもっともらしく説明して行くのが、原発説明会である。自由な話し合いが行われ、住民の素朴な疑問に分かりやすく答えるような、本来の説明会が繰り返し行われるべきだなのだ。考え方がかみ合いはしないが結論なら、説明会方式は形式民主主義を育てることに成る。

民主主義は昔の日本には無かったかと言うと、そうでもない。日本独自のものごとの決め方と言う寄り合い方式があった。「小田原評定、久野寄り合い」という言葉が残っている。水の分け方から学んだ方式である。平等とも公平とも違うが、命がけの利権の調整が行われた。そうして、寄り合いで話を決めて行くための、部落ごとのまとまりの必要性。村の意思統一の成立。そして地域全体の調整。それは権力による調整よりも、民衆自体が必然性を持って行った、意見調整の方法だった。水争いで起こる、利己主義と集団の利益。集団同士の対立と調整の必要。この経験から、日本なりに充分話し合うことの必要性が認識された。何かを決めるためには、2日や3日泊まり込みで話し合いを進めたそうだ。時間制限なしに意見が出尽くす事が優先された。普通の人が意見を出し合うには、時間が必要である。例えば地域で、水力発電を行うこと。舟原の集落にあったという五つの水車を復活すること。こういう具体的事例で、とことん話し合うことから始めてみたらどうだろうか。

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