今、道を描いている。
道の絵を描いている。道は上り坂である。そのさらに上に海が見える。不思議な構図のようだが、現実にある風景である。中空に浮き上がったような海がとても面白い。海には遠く半島も見えているが、空に雲があると、海も空も島影も、一緒に成って道の先に浮き上がっている海が、空のようである。鉛筆で書いたものが、元日の絵だ。中央にある樹は柿である。栽培された柿にしては太い。直径で30センチはある。この登っている道を支えている木だ。この樹の根が張っているから、この道は崩れないでいる。この少し手前のところは一昨年の豪雨で大きく崩壊した。一気に土壌がえぐり取られて、もし下の家の方まで来たら危ないところだった。道が作られるということは、畑が管理されていなくてはならない。この道は運搬機で、みかんを運ぶために使われている。この山が、すべて畑だった時代には主要な道路であっただろう。今では使う農家が1軒きりになっている。
今は車の行かない畑というものは、やる人が居ない。よほどのことでなければ山に戻って行く。それにしても人が歩く道が美しい。人が踏みしめて出来ている道が何とも言えなくいい。その地形に従ってあるべきところにあるべきものがある。少し無理があるところは崩れて、また自然に従う。人為と自然とのかかわりというものが面白い。その加減がいい。道が面白いのは、人間の動線に従って、流れや動きがある。生き物のような生命感がある。道そのものが持つ命と、自然の持つている精気のようなものが反応している。気韻生動というが、こうした人間がかかわりを持つ自然の姿なのだと思う。自然と人間の良い加減のかかわりが美しい。それにしても、その流れを打ち破る柿の木が、なんであるのか。そのことがずーと分からないで、だから面白いと思いながら、描いたことが無かった。柿の木があるとすれば、やはり柿の木がこの空間を支えているのだ。そうした空間の支え方を長年絵に出来なかった。
実際に描いてみる気に成ったのは、今回が初めてなのだが、12年前に始めてこの道を通った時から気に成っていた場所である。昔平戸で同じ構図の絵を描いたことがあった。その絵は広がって行く空間の方が面白くて、大地の力のようなものは見えなかった。それで横構図で描いた。今思えば表層の美しさというか。光の美しさに目を奪われて本当のことを見ようなどという神経は無かった。今ならあるという訳ではないが、何故美しいく見えるのかを毎日、考えることはできる。考えるということが前進であるか、後退であるかは分からない。絵としてはどうなっても構わないことで、自分という存在が見ていることを、ともかく突き詰めて描いてみたい。海が昇って行く先にあるのものが何とも言えなく面白い。この柿の木の枝の間に浮いている海と雲。結局、柿の木とのかかわりなのだろう。目はそれぞれを漠然と見るのだが、いざ見ようとするときには、個別に見ている。
絵にするとは、関係である。マチスやセザンヌのやり方では、空間的距離を見ていない。画面上の隣接する色彩ということの方を重視している。画面上の動きが、自然の持っている同性とは別のところで作り出される。見ていることに従えば、関係などない。さてどうするか。天動説の方が実感には近いように、科学性のような、頭の数理的理解と、想念的な現実はどう関係しているのか。たぶん、シャガールの絵画がシャガールの現実であるように、自分の目が見ているというそこにある世界に、どうやって肉迫するか。これが出来ない。確かに出来ない。出来ないけれどこれが一番興味がある。その先にあるのことが、絵画というものと関係があるようでもないが、ともかくこれだけは確認したい。