市民協働のまちづくり
小田原では、市民協働のまちづくりが繰り返し言われている。おそらく全国の大半の市町村で、「市民が主役のまちづくり」が言われていることだろう。耳触りのよい、当たり障りのない標語であるからだろう。どこでも言われるが、これほど分かりづらいことはない。「明るい町づくり。」などと同じで、小田原では、前市長も、現市長も同じことを建前としていた。しかし、具体的には明るいと言っても主要道路は何ルックスにする、というようなことではない。市民が主役であるなら、こんなはずはないということは、数限りなく起きている。今の段階では主役は市長なのだろう。少なくともその方が実情に近い。では市民が主役に成れないのは、配役を決めたプロジューサーや監督が悪いのかと言えば、そうではなく、市民が主役に成る意識がないということだろう。実は、市民を叱咤激励している標語と考えれば分かりやすい。
市民は傍観者でいたい。普通の市民は、「すべての煩わしいことを行政が落ち度無くやってくれて、市の仕事になどかかわる必要がない。」その状態を最善と考えてる。そうした市民意識を変えたいということを行政は考えている。そこに今の小田原の若干の混乱がある。先日、城址公園の整備計画で400本もの大樹を切るな。という抗議の声が上がった。当然に見える。小田原の有能な行政は、抗議の声が上がりそうなことは、多くの場合市民の知らない間にすべてを片づけてしまう。抗議の声を上げようにも、片付くまで市民が知らないのだから、問題にはならない。市会議員は気付かない。勉強をしないし、選挙にでもかかわらない限り、声を上げるなどということはない。こんな状態できた。市民ホール問題でも、ことが決まり設計も終わったところで、市民が気がついて騒ぎが始まった。大抵のことは、結論が出てからしか、市民は気がつかないように出来ているのだ。
今、問題になるのは、広域ごみ処理施設。広域斎場。この二つは市民が今知らなければならない課題である。両者とも十分説明をしたと、加藤市長のブログには書いてあった。そばに住んでいる私にしてみると、何の説明も聞いたことがない。というのが実感である。主役に台本もまだ渡されていない。知らない間にことは進められている。そうして、具体化して設計が終わったあたりで問題化する。広域斎場の立て直しでは、市民全体への説明会ぐらい最低限必要であろう。地域の自治会あたりでぐちゃぐちゃとやって、何やら裏取引でもありそうな、進行で事なかれで行こう、では済まされない。私は斎場から1キロも離れていないところに住んでいる地元の人間のはずだ。火葬場が古くなって、処理能力を越えて、建て直すらしい。しかも、今度は2市8町の利用するものとするらしい。すべてらしいである。担当の行政の説明はない。担当は説明の必要はないと考えているのに、市長は十分の説明をしたという矛盾。実は火葬場などどうでもいいと今までは思ってきた。しかし、市民が主役に成るには、この進め方はどうにも話がおかしい。こういう今までの台本書き変えるということではないか。
主役のはずの市民に都合の悪いことは知らせない。行政は連合自治会あたりに説明をすれば、充分話をしたと勘違いしているらしい。時と場合によっての行政の責任逃れに自治会が利用されている。予算がないから、市民が主役で福祉をやって下さい。ごみ掃除をやって下さい。水路を治してください。一番やらなければならないのは、情報の公開である。広く地域で公開された場で、事が始まる前に、十二分の説明をする。市行政のホームページに、計画と現状を出来る限り正確に解説を載せる。そうして事業を市民のものにする。「冗談じゃないよ。どこの家にも便所は必要だ。便所の計画はひそかに進めるしかないんだ。」これが本音であろう。迷惑施設の計画は市民に漏らさない。これが行政のやり方だ。建前の市民の主役は、どこかに飛んでゆく。条例などにも、意見の募集があれば出来る限り意見を提出してきた。しかし、反応は全くない。国やよその県では、体裁のいい返事くらい来る。小田原では主役のはずがどうしたことか。パブリックコメントはガス抜きで、アリバイ作りに相変わらずなっている。
昨日の自給作業:草刈り1時間 累計時間:2時間