水土の再生6

   

農地法で農家は保護されているかのごとく言われてきた。農地法は農家保護に見えて、実は農家の崩壊を導く法律となったいた。農家には簡単になれない歯止めの法律として入り口を塞いでいる。一方で、農業から工業へと労働人口を一方通行に移行させてきたのだ。農家を減少させながらも、食糧生産は確保されるように、大規模化が目的とされている。結局のところ農家の意識を生産基盤としての農地から、不動産としての農地というものに変えさせる結果となった。農家が財産管理として、農地の維持をはかる。食料の生産を採算を度外視して運用してくれる。それが日本の食糧基盤になる。その上、そこから優秀な労働力が無尽蔵に湧いて出て来るとしたら、これほど都合のいい仕組みはない。これが、明治以降の日本のやり方であった。優秀な人材は農村から出て都会に集まってゆく。農村に残るものは、競争に乗り遅れた人間である。この構図を農地解放があったにもかかわらず、戦後も永続させたのが、今の農地法の存在である。しかし、いよいよ終わりが近づいている。

地価の上昇が続いた時代は、岩手の山奥であっても案外土地価格は高くなった。利用価値とは別に上昇した。岩手を例としてあげたのは、兄がそこで農政の役人をしていたので、事情を聴いているからだ。北海道の原野商法でも同じである。しかし、不動産神話が通用しなくなり始めている。近代的な農業としては、いわば合理化でない農地は、補助金が加わり植林をした。その上で放棄されている現状がある。経済的に見合わない農地は、荒れ地になり始めている。限界どころか、放棄集落が全国いたるところに存在している。こうした状況では、農地法はなし崩しの運用にならざる得ない。根本の法律改正でなく、運用的に、かなりの範囲で農家になれるように変わった。となると、今まで農家を農地を維持してきた、価値観はどこに行くのだろう。財産管理意識が無くなれば、いよいよ農業の崩壊につながる。家というものの崩壊でもある。国としての食糧生産を根本から見直さざる得ない、状況に来ている。

工業立国である以上、農業保護では永続できない。関税の撤廃は世界貿易の方角である。全く違う観点から、この状況を逆手に取らなくてはならない。日本のどこに住むにしても暮らせる社会にして行く。むしろ都市の中に暮らすより、充実して地方で暮らせる状況を作り出すこと。その方向を作らないことには、この行き詰まりは解消できないだろう。田中角栄氏は田舎にはキャバレーもパチンコ屋も無いから、若者は都会に出て行く。このように言っていた。そんな風に見えた時代もあったが、今はそういうものが無いから、田舎で暮らそうという人が出てきている。人間には様々な人がいる。その様々な暮らしの選択を可能にすることである。農地法はそれを阻止するために今までは運用されてきた。

今の時代の憧れは、むしろ自然の中の暮らしである。それだけ人間が疲労している。自然の中で暮らせる条件を社会として作り出すことだ。人間一人は100坪の土地で食糧の自給は出来る。時間は1時間である。家族4人なら、400坪の土地に家を建てて、食糧の自給は日曜みんなで働けばそれだけで、可能である。小さな家ではあるが、100万円で家はセルフビルドできる。これが可能になる条件を、法律的な条件を整備するのが国の役割である。そうすれば、人口は地方分散する。都市一極集中が解消できる。衛星利用のITの整備が進めば、情報的には都市と地方の格差は無くなる。医療とか教育であっても、何でも病院や学校を頼りにする必要はない。予防医学や教育の自給を徹底することで、都市に劣らないどころか、都市とは比べ物にならない人間的な生活環境が構築できる。

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